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【松阪歴民】映画監督小津安二郎と国学者本居宣長をつなぐ?!
この4月3日より、松阪市立歴史民俗資料館の2階に世界的にも評価の高い映画監督小津安二郎の記念館が

「小津安二郎松阪記念館」

として開館しました。
小津安二郎

この民俗資料館は、明治45年(1912)に、松坂城跡内に飯南郡図書館として建てられ、現在も当時の外観を残し、国の登録有形文化財になっています。

歴民イラスト

さて、小津安二郎ですが、大正2年(1913)、9歳から約10年間、父の故郷である松阪で過ごし、日記にも「図書館で昼寝をした。」と書くなど、幾度も飯南郡図書館に通っていたこともあり、小津安二郎の関係資料を常設することになりました。

これで、松坂城跡内には、『古事記伝』を著した江戸時代の国学者本居宣長と、映画監督小津安二郎の記念館ができました。

語弊を恐れずに言えば、宣長と安二郎の二人は、活躍した時代も分野も異なりますが、その時代にその分野で傑出した人物ということでは、松阪の誇る文化人の二大巨頭であると思っています。

前置きが長くなりましたが、本居宣長から小津安二郎につながるまで、少々長くなります。この後、たくさんの「小津」が出てきますが、迷わないようについてきてください。
 
本居宣長は、享保15年(1730)、本居姓ではなく、江戸店持ちの松阪商人の小津家に生まれています。しかし、早くに家業の商家を閉めて、父方の姓の本居姓を名乗り、医者を生業として国学研究の道を歩みます。後年、松阪では「小津党」と言われるほど多くの小津家が生まれますが、この宣長の小津家こそが、角の小津家(油屋源右衛門)と言われる小津家の始祖につながります。

本居宣長61歳自画自賛像(像)
《本居宣長61歳自画自賛像》本居宣長記念館蔵

さて、時代は、江戸時代初期(1600年代中頃)までさかのぼります。当時、江戸に木綿店を開いていた宣長の曾祖父小津三郎右衛門から始まります。そこで、三郎右衛門は、別の店で奉公人をしていた松坂生まれの長弘という人物(後の小津清左衛門)の商才と人柄を見込み、200両の資金を援助するとともに小津屋の屋号の使用を許可します。長弘は、その資金を元手に大伝馬町の紙店を買い取り、後に小津清左衛門として江戸一番の紙店となり、三井家などとともに屈指の江戸店持ちの松阪商人となります。

この清左衛門長弘の二代後の長康の時、支配人になった奉公人の保教(後の小津新兵衛)は、清左衛門長康より仕分金500両と「別家」として相談役の立場になり小津姓を許されます。そして、江戸北新堀の干鰯問屋 湯浅屋に出資、小津新兵衛(後に与右衛門家とも)を名乗り、江戸店持ちの松阪商人となります。その後、新兵衛保教は、分家として小津新七家を創設し、本家とともに湯浅屋の経営にあたらせます。そして、分家の新七家は、代々湯浅屋の江戸店の支配人を努めることとなります。

この小津新七家の6代目が、安二郎の父寅之助になります。湯浅屋では、本家(新兵衛家)の主は、松阪に住みましたが、新七家の主は支配人として江戸に居住することが多く、安二郎は寅之助の二男として、明治36年(1903)に東京深川に生まれます。
ようやく安二郎まで来ました。皆さんいかがですか、宣長の小津家から小津清左衛門家、そして小津新兵衛家(与右衛門家)、最後に小津新七家と数百年の時を経て、宣長と安二郎を小津という姓を通じて、つなげることができました。

また、宣長と安二郎の共通するのは、いずれも松阪商人の家に生まれ、状況は違えども二人とも商人の道を選ばなかったことです。また、宣長がその著書、『玉勝間』で、「富る家おほく、江戸に店といふ物をかまへおきて、~中略~あるじは、国にのみ居てあそびをり」と評し、その様子を「すべておさおさ京におとれることなし」と書いたように、松阪商人の中には、豊かな経済力を背景に、文化的にも高い素養を持つ文化人も多く生まれています。宣長、安二郎の二人とも、松阪商人の文化人としての遺伝子を、十二分に受け継いでいたということが言えるのではないでしょうか。

みなさま、ご清読?ありがとうございました。

最後にぜひ、松阪市立歴史民俗資料館(2階 小津安二郎記念館)と本居宣長記念館にお越しください。また、この話の中で出てくる小津清左衛門の旧宅も公開されています。

(川口朋史/松阪市立歴史民俗資料館)
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気候も良いので、ぜひ松阪ぶらり旅、楽しんでみてくださいね!森見登美彦さんの『四畳半神話大系』にも「小津」なるキャラクターが登場しますが、彼もルーツが松阪商人だったのでしょうか。。。と想像すると楽しいですね。
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[2021/04/04 22:00] | 未分類 | page top
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