『なごみ』2019年6月号に「洗朱桜蒔絵盃をめぐって」という文章を宮武慶之先生を書かれています。
そこには新発田藩主・溝口直諒(なおあき/号・翠涛)が定信から到来した蒔絵盃が紹介されています。 定信と溝口直諒との関りはどのようなものがあったのでしょうか。少し気になったので調べてみました。 まず両者の生没年を比較してみましょう。 手軽に調べられるのは『三百藩主人名辞典』です。第3巻47頁に新発田藩5万石溝口家第10代藩主として紹介されています。 溝口直諒1799-1858 定信が1758年生まれですので二人には年齢差41歳、相当離れています。 親子というより孫ぐらいの年齢差ですね。 関りがあったとしても定信の晩年にかかりそうです。 それでは閨閥はどうでしょうか。大名家は婚家・養家が入り混じっており、意外なところから繋がりが出る場合があります。 直諒の母は側室で、定信との関りはなさそうです。 正室は「松平安芸守斉賢娘」とあります。「松平安芸守」は広島藩主・浅野氏ですので、これは 浅野斉賢 を示します。残念ながら浅野家と定信の間にもこれといった血縁はありません。 それでは最後に私淑する理由として対ロシア外交は考えられないでしょうか。 新発田藩は日本海側に位置し、ロシア船の来航に備える必要がありました。 そうしたあたりから対ロシア外交を担当した定信とのつながりが考えられます。 定信の時代はラクスマンが来航し、ロシア外交が本格化する時代でした。 海防強化が叫ばれる中、直諒が定信に私淑したのかも知れません。 スポンサーサイト
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