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【松阪歴民】 池大雅の金看板
当歴史民俗資料館には、その名のとおり多くの松阪地域の民俗資料を中心に多くの資料を収蔵しています。今回は、その中でも、当館とっておきの“お宝”を紹介したいと思います。(いやいやすべてお宝です!!)

1階の受付の左手に江戸時代の店を模した「店の間」があります。

店の間

そこに「黒丸子」(直径120cm)と「万能千里膏」(高さ約192㎝)と書かれた大きな金看板が掲げられているのがそれです。この看板は、江戸時代、松坂城下の参宮街道沿いにあった薬種商の桜井家のものです。

ちなみに「黒丸子」は腹痛薬、「万能千里膏」は足痛薬です。

黒丸子

万能千里膏

この看板の筆者は、与謝蕪村とともに文人画(南画)の大成者として有名な池大雅です。

江戸時代の松坂は、三井家に代表される江戸店持ちの豪商がたくさん軒を連ねていていました。その豪商のひとつ中川家の当主であり、書家でもあった韓天寿は、大雅と親しく、互いに三岳道者と号し、富士山、白山、立山に登っていました。

当時、松阪の世相を記録した随筆『宝暦咄』にも「一、池の周平と云ふ画師来ル後大雅といふ 一、玉瀾の扇うりものニ来ル弐百文ヅ、」と書かれていて、大雅が妻玉瀾とともに松阪に来たことが記されています。

また、大雅は、他にも何点かの看板を残していて、何度も松坂を訪れていたと考えられます。

余談ですが、この韓天寿、『宝暦咄』の「おごり人」として登場し、「手を能書、天寿と世間へ名を上たる人、(中略)町人のそなへには入らぬ事、身上は百分一になりたり、(後略)」とあります。家業以上に、中国の高価な法帖、墨籍の収集等書家の活動が過ぎたため、晩年は貧窮したと言われています。

さて、この「黒丸子」の看板ですが、よく見ると落款がありません。ちなみに「万能千里膏」には、落款があります。そこには、面白い逸話が残されています。何となくありそうな話ですが、最後にその逸話を紹介します。

「桜井家ではこの頃、京から書画の大家、池大雅が来ていると聞き、この人に看板の『黒丸子』という文字を書いて貰うべく板を削って待っていたが、一向に来ない。すると通りがかりの薄汚い服装の男が店へ来てその看板を俺が書いてやろうと言う。店番の小僧が、主人が不在でもあるし、これはすでに書いてもらう人が決めてあり、その人の来るのを待っているのだからというのも構わず、墨痕淋漓と書きなぐり、飄然と去っていった。小僧も心配して、帰宅した主人に訳を告げると主人も立腹したが、よくよくその筆意を見ると実に見事な出来栄えであった。筆者が何人とも判らぬので、気にかけながらそのままにしていると、ほどなくそれが大雅であったと判り、たいへん喜んだ。そんな理由で落欵が無いというである。」

川口朋史(かわぐち・ともふみ/松阪市立歴史民俗資料館)
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さすが松坂、文人画の交流がすごいですね…。
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[2022/02/27 22:00] | 未分類 | page top
【四日市博】”雲の神様”島倉二千六の世界
昨年はウルトラマン55周年、仮面ライダー50周年、スーパー戦隊45作品という特撮ヒーローのメモリアルイヤーでしたね。巨大怪獣や巨大ヒーローが活躍する特撮映画の多くは、スタジオ内や野外に現実っぽい風景を作って撮られますが、画面の奥行きを表現するために、背景に空や風景などを描くことがあります。

こうした仕事を専門にする背景画家で特に知られているのが、「雲の神様」の異名を持つ島倉二千六(ふちむ)さんです。

島倉さんはウルトラマンや平成ゴジラシリーズなどの特撮映画、最近では「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の背景画も手掛けられ、日本の映画、特撮シーンになくてはならない存在です。昨年3月に出版された『特撮の空』(ホビージャパン社)や昨年9月に放送された日本テレビ系バラエティ特番「有吉×怪物」で多くの人の知るところとなりました。

今回この話題を取り上げたのは、四日市市立博物館(そらんぽ四日市)に島倉さんの作品があるからなんです(写真1)。

写真1
写真1

常設展「時空街道」の弥生時代「久留倍(くるべ)の村」、室町時代「四日の市」、江戸時代「四日市宿」の原寸大再現展示の背景画がそれです。三滝川に架かる三滝橋から鈴鹿山脈を実見したり、資料画像を確認したりしながら、島倉さんらお二人が延べ1ヵ月ほどかけて完成させました。

作業中に印象深かったのは、描き初める前、島倉さんが展示室の壁面をしげしげと眺め、わずかな凹凸や小さなヒビなど、照明の影が出そうな所を見つけては、雲や木を書き込んではどうかと提案をしてくれたことです。これは完成した作品がそれらしく見えるかどうかにも繋がる大切な視点だということに気づかせてくれました(写真2、3)。

写真2
写真2

写真3
写真3

背景画は間近で見ると描き込みが粗く、所々に塗り残しもあったりして、「え?」「ん?」と思うこともありますが、少し離れて見ると、不思議なことにしっかりとした存在感があります(写真4、5)。

写真4
写真4

写真5
写真5

描きすぎないのは、短い時間の中で大画面を描かなくてはならない映画ならではの制約からくるものでしょうが、歌舞伎などの舞台で使われる書割にも共通する背景の前面にある立体物(大道具)を本物らしく見せるための表現ともいえるのではないでしょうか。

近鉄四日市駅から徒歩3分。四日市市立博物館にお越しの際は、時空街道とともにその背景画にも注目してください。

廣瀨毅(ひろせ・たけし/四日市市立博物館 )
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四博さんの背景って島倉二千六さんだったのかー!!!
[2022/02/16 22:00] | 未分類 | page top
【亀山歴博】他館ポスターを巡る随想
県内外の博物館に行くと亀山市歴史博物館(亀博)のポスターが貼られています。斯(かく)く言う亀博も他館のポスターを貼っています。その数大体30館程を常時入替てます。

私は亀博の他館ポスター掲示を常設展示、企画展示に次ぐ「三つ目の展示」と心密かにで呼んでいます。亀博を思索したり、テーマやデザインの何となくの傾向を自分なりに分析したりして楽しんでいます。

01ポスター

他館のポスターが亀博にあるのは、県内や近隣府県(特に歴史系が多いですね)、亀山市と歴史的に縁のある館等と交換しているからです。こうした交流で送られてきたポスターを掲示し、ちらしは棚に設置しているのです。平成六年度の開館以来続いています。面積的に全部は掲示仕切れませんが。

02ポスター

長い年月「三つ目の展示」を観ていると、「博物館は思った以上に世の中と繋がっているなあ」と感じます。ほとんどのポスターは、特別展や企画展など期間限定展示の宣伝で作られます。三十年程前は、春や秋は今と同じように期間限定展示のポスターが来ていましたが、夏や冬はあまり来ていなかったような印象があります。

03ポスター

ところが、開館から数年してからは、夏や冬の期間限定展示ポスターが増えてきました。この頃は、公立私立の博物館が随分できましたが、数年後に息が続かなくて閉館するところもありました。そこで、特に市町村の公立は、季節毎に期間限定展示を展開し、地元に立脚する公共施設として存在を高めた気がします。

今は、亀博も他館も極自然に、季節毎の期間限定展示をしていますね。URLの明記が当たり前になったのも、IT普及の社会変化が関係していますね。ポスターが少なかった昨年度は世の中との繋がりをもっと身近に感じました。

不思議なのは、なぜ博物館は公立私立問わず、ポスターやちらしの交換をしているのでしょうか。同じシーズンに全国で似たような期間に展示が設定されているということは、お客様に如何に関心を持って貰うかの競争のはず。

ちらし

謂わばライバルでもあるのですから、他館の宣伝なんて、と考える事もできるのですが。思うに各博物館は細胞で、全国の博物館の集約が身体に当たるからなのか。私にとって慥(たし)かなのは「三つ目の展示」を観ると各館の地元での元気な姿を感じ、次なる企画へのヒント、自館の資料への再調査の契機になっていることです。

博物館の未来、「元気な身体は元気な細胞から」。「三つ目の展示」から、そんな事を巡らしています。

小林秀樹(こばやし・ひでき/亀山市歴史博物館館長)
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自館のポスター、貼ってもらっているかどうかは業界筋は確認しますよね。貼ってもらってありがとうございます!
[2022/02/13 22:00] | 未分類 | page top
【宣長】「わからない」と言うこと(後編)
宣長の研究活動を辿るとき、ギョッとするのは、宣長が使っていたテキストの類いである。

宣長が研究に使用した『古事記』下巻
≪宣長が研究に使用した『古事記』下巻 【国重文】≫

大量の書き込み。書き切れなければ別の紙に書き、本に挟んでいく(貼り付けたのは、宣長の子孫・清造さん)。

見開きの『古事記』下巻・仁徳天皇条に、次のような話がある。

この御代に、免寸河の西に1本の高い樹があった。その影は、朝日に当たると淡路島に届き、夕日に当たると高安山を越えた。

ここに出てくる「免寸河」の読みに、宣長は頭をひねった。

宣長の『古事記』テキストには、該当箇所に

「師云、兎ナルベシ」

と書き込まれている。宣長の師・賀茂真淵は「免」は「兎」という字の誤りだという意見らしい。

『古事記』下巻「免寸河」拡大部分
≪『古事記』下巻「免寸河」部分拡大≫

 また、上部貼り付けの附箋には、

「免寸」は「莵戸(ウド)」の誤りではないか

と、宣長が自分の考えを書き、『日本書紀』に「莵砥(ウトノ)川」という用例があることも記されている。

『古事記』下巻 宣長の附箋 拡大
≪『古事記』下巻 宣長の附箋 拡大≫

さらに、見開き左のページに添付されている大きな紙は、「免寸河」について知っている者から得た情報だ。

地元民から聞いたとおぼしき内容だが、どうやって、誰から貰ったのかはよく分からない。

集められる情報は可能な限り収集し、全てテキストに詰め込んでいく。まるでノートのようでもある。

考えに考えた末、宣長は『古事記伝』に読みを振らなかった

『古事記伝』巻37 フリガナが無い「免寸」
≪『古事記伝』巻37 フリガナが無い「免寸」【国重文】≫

宣長は『古事記伝』注釈で語る。

「免寸河」の「免」の字は、間違いなく写し誤りだろう。しかし、その字は考えつかない。【「兎」の字の誤りかとも思うけれど、そんな河の名は思い当たらない。その他もいろいろと考えたけれども、その誤字については、やはりはっきりしない。「寸」の字は元のままでもありそうだが、上の字と同じように「寸」も誤字である可能性もあるだろう。「免」は万葉仮名などにも用例がなく、読みも思い浮かばない。「寸」は、『古事記』中で万葉仮名として使用例がある。】 だから、読む方法もないので、そのまま読みを書かずにおく。

宣長の『古事記伝』草稿本(下書き)巻37には、後から、「免寸河」についての考察が3枚の紙を継ぎ接ぎしたものにびっしりと書かれている。

「わからない」と格闘する宣長の姿が浮かび上がるようだ。

『古事記伝』草稿本宣長筆
≪『古事記伝』草稿本(下書き)宣長筆【国重文】≫

ここまで調べ上げ、考え抜いてからであるから、宣長の「わからない」には重みがある。そして、「これから解明されるのではないか」という宣長の期待も感じる。「わからない」と投げかけられた宣長の言葉は、現代の私たちへの宿題なのだろう。

宣長より後世の研究で、解明されたものもある。ただ、この「免寸」をはじめ多くの疑問は、未だ決着のつかないままである。

西山杏奈(にしやま・あんな/本居宣長記念館)
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「専門家なのに『わからない』というのは何事か!」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、専門家の言う「わからない」はこれほどまでに調べたうえでのことなんですね。。。。宣長先生を見習いたいと思います。「免寸」の謎はぜひ西山先生に解明していただきたいですね。
[2022/02/09 22:00] | 未分類 | page top
【四博】四日市市博の企画展「昭和のおもちゃ」に寄せて
これまで収集癖の結果として集まった「メジャー」「バーコード」「キャラ系鉛筆」について紹介させて頂いた。

今回はコレクションの王道とも言うべき「ブリキのおもちゃ」である。と言っても私が子どもの頃遊んだものは、今や骨董的な価値を持ってしまい数万円から数十万円もするので、仕方なく、それをコピーして造られた中国製のものや、日本の復刻版、現在でも製作されている安価なもので我慢している。

ブリキ③

そもそも日本の「ブリキのおもちゃ」は、ドイツ製品のコピーに始まり、明治初期の<第一次黄金期>と大正の<第二次黄金期>を経て、昭和戦前期のオリジナル試行錯誤の時期から、戦後(1945-1960年代)には、今日の自動車産業にも匹敵するような、世界進出と外貨獲得の中心となる<第三次黄金期>を迎えている。そこでは「からくり」的な超高度な仕掛けや動きまで備えていた。

ところが1970-80年代に入ると中国・台湾・韓国などのコピー製品や、ブリキに替わるプラスチックなどの素材が出現し、大きな変化をもたらす。その頃は、おもちゃ関係の出版や展覧会が相次ぐなど、早くも過去の歴史検証や、懐かしむ傾向も出てきて、したがって1990年代以降の時代には「ブリキのおもちゃ」は、最早子どものものとしてよりは、大人の趣味・コレクターグッズとしての性格を強めている。コレクター向けに日本製の復刻版が多く出てきたのもこの頃である。

「メジャー」「バーコード」「鉛筆」などは集めた成果物を並べて、「うっとり」と、いつまでも眺めているなどということはないのだが、「ブリキのおもちゃ」については並べて、


並べ替えて、磨いて、眺めて、ニヤニヤして、癒される~。

独特のポップな色彩感と愛嬌あふれる形、丁寧な手作り感覚。現代の玩具に多いプラスチックと違って、年代を経れば経るほど、しっとりとした艶が出て、言いようのない透明感を備えてくる。

ブリキ①

こういった玩具の背景に広がる当時の子ども文化、<駄菓子屋><原っぱ><ガキ大将>などと言うキーワードを中心とした遊びの文化・世界への思いが断ちがたくて、未だに「ブリキのおもちゃ」にこだわっているのかも知れない。

少なくとも1964年新幹線が開通し、東京オリンピックが開催され、現代化・都市化・東京中心の波が地方へも押し寄せてくる頃までは、私の周りには、今では手に入れることの出来ない、ひとつの文化・世界が確実にあった。

展示⑤

そんなわけで今、四日市市博の企画展「昭和のおもちゃ」(2月27日まで)で展示されている私のブリキ玩具コレクション(現在は四日市市博蔵です)も、お暇と興味がございましたら、お出かけいただければ嬉しいです。

 (吉田俊英 よしだ・としひで/四日市市立博物館)
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四日市でぜひ昔の思い出にひたってみてください!
[2022/02/06 22:00] | 未分類 | page top
【宣長】「わからない」と言うこと(前編)
宣長先生絶対視、というような傾向がある。

本居宣長ほどの人には知らないことなんて無いだろうなぁ、とか。

1000年読むことが出来なかった『古事記』を解読出来たような人だから、何もかも分かっているんじゃないかな、とかとか。

偉業を成し遂げた人物には、付いて回りがちな見られ方かもしれない。

現在、本居宣長記念館では冬の企画展「心力をつくして 『古事記伝』への道」が開催中だ。(3月6日〔日〕まで)

冬の企画展 チラシ
≪冬の企画展 チラシ≫

その展示資料を見ていると、意外なことが浮き彫りになってきた。
かの宣長先生にも、「わからない」ということは多かったのである。

宣長の代表作『古事記伝』にも、その言葉は多く登場する。

712年に編纂された、現存最古の歴史書『古事記』。それを読めるようにした注釈書が、宣長の『古事記伝』である。

『古事記伝』には、本文の読み方から登場する地名・動植物、場所の推定、言葉の意味など、実にさまざまな面からの解説が書かれている。

宣長自筆の『古事記伝』巻10
≪宣長自筆の『古事記伝』再稿本 巻10 【国重文】≫
大きい字が『古事記』本文、小さい字が本文の注釈部分。本文には全てカタカナで読みが振られている。

この注釈部分に、「未ダ思ヒ得ズ」―つまり、「わからない」というフレーズが度々出てくるのだ。

宣長は『古事記』本文冒頭の「天地初発之時」の「天」を「アメ」と読むとしながらも、「アメ」という言葉の意味については保留している。
『古事記伝』再稿本 巻3
≪『古事記伝』再稿本 巻3 【国重文】≫

「天地」は「アメツチ」の漢字であり、「天」は「アメ」という。しかし、「アメ」という言葉の意味については、よくわからない。

多くの言葉について、元の意味を説き明かすというのは非常に困難なことで、無理に理屈をつけようとすると、必ず誤った説が出来てしまうものだ。今も昔も、多くある説のうち8~9割方は見当違いなことばかりである。

結論は「よくわからなかった」ということ、わからないことに無理に理由付けをしようとする危険性を示し、それでも「とはいっても、一向に考えを出さないわけにもいかないので、考えが及ぶ限り試みる」と言い、さまざまな可能性について頭をひねって考えている。

実に宣長らしい、慎重な態度だ。

これが、「わからない」と発言する宣長の考え方である。

ただ、宣長さんの「わからない」は、私みたいな人間が「わからない、わからない…」と言っているのとは、訳が違う。

後編では、宣長の『古事記』研究活動を詳しく観察してみよう。そして、凡人の「わからない」との違いに、よりビックリ!して頂きたい。

西山杏奈(にしやま・あんな/本居宣長記念館)
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宣長先生ほどの碩学になられるとわからないがレベチですね…。後編(来週2月9日にアップ予定。西山先生の次週作にご期待ください!)
[2022/02/02 22:00] | 未分類 | page top
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