fc2ブログ
【斎宮歴博】元気な斎宮跡
三重県博物館協会の皆様には、今年一年お世話になりありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いします。

と挨拶をする時期になりました。

今年1年を振り返りますと、まん延防止等重点措置、緊急事態措置が発出され、新型コロナウイルス感染症の拡大による閉塞感の漂う一年となりました。

当館においても臨時休館、講座等の延期で今年も新型コロナウイルス感染症に振り回された一年でした。

このような年ではありましたが、明るい兆しもあります。

9月の臨時休館を経て、10月から通常どおり開館したのですが、10月の初旬・中旬の観覧者の出足は鈍かったものの、10月末からは昨年度と比べ増加傾向が続いています。コロナ前の当館のメインゲストである県外の団体客は、まだまだ少ない状況ですが、観覧者が増えていることは喜ばしいことです。

また、10月からのコロナの落ち着きと共に、斎宮跡では、一般社団法人明和観光商社(地域DMO)が

「神宮ゲートウェイ 斎宮創生プロジェクト」

として、怒涛のように事業・イベントを開催しています。

少し紹介させていただきますと、プロジェクションマッピング、ドライブインシアター、名所を巡るレストランバス、ラッピング列車の運行、京都・名古屋と斎宮を結ぶ臨時列車ツアー、熱気球、音楽イベントなどを行っています。

まだまだ、たくさんの事業を行っており、毎週末には斎宮跡で何らかのイベントが行われている状況です。

①プロジェクションマッピング
①プロジェクションマッピング

②ラッピング列車
②ラッピング列車
参考:明和観光商社HP: https://dmo.hana-meiwa.jp/

当館は、国史跡斎宮跡の調査研究・情報発信の拠点として開館しましたが、文化施設として地域のまちづくり、観光・産業などの関係機関との連携による地域活性化も重要だと考えています。

今後一層、関係機関、各種団体が一体になれば、斎宮跡、明和町が大きく変貌する可能性を持っています

令和4年は、斎宮跡、明和町の変貌に期待しているところです。

(大西 宏明 おおにし・ひろあき/斎宮歴史博物館)
-----
プロジェクションマッピングも冬のイベントとして定着した感がありますね。斎宮ならではのプロジェクションマッピングにぜひご期待ください。

皆さま本年は大変お世話になりました。来年もどうぞ宜しくお願い致します。
スポンサーサイト



[2021/12/26 22:00] | 未分類 | page top
【真珠博】鳥羽パノラマ幻燈館 ~スクリーンに甦る鳥羽の景観~
はじめまして。真珠博物館の中村です。

当館では真珠などにまつわる特別企画展を毎年開催しています。

今年は当館のあるミキモト真珠島が開島70周年ということで、ミキモト真珠島のある鳥羽市の景観をテーマにしています。

来年度の特別企画展の予定が立つ時期になりましたが、現在開催中の特別企画展について宣伝をさせていただこうと思います。

特別企画展内観
特別企画展内観

今年度の特別企画展では、鳥羽市の景観が写された記録写真や絵ハガキ・地図・パンフレットなど合計62点もの資料を映像化し、会場でスクリーンに投影しています。スクリーンは4面あり、それぞれ5分ほどでご覧いただけます。かつての景観は現在の景観とはかなり違っており、会場で見たものと現在の実際の景観を見比べてみると面白いと思います。

かつての景観
かつての景観

今回の資料の選定は八景という基準で行っています。

八景とは気象や時候に応じ、ある土地の優れた場所を八か所選びだす風景評価の方式のことで、かつて中国の王朝であった北宋の時代に選ばれた瀟湘八景がはじまりとされています。明治時代には土居香國による鳥羽八景が存在したこともあり、令和時代の鳥羽八景として真珠博物館 松月館長が選びました。

鳥羽八景に選ばれた資料の中で私が気に入っているものは「志摩鳥羽港全景パノラマ」という作品です。現代でパノラマと言われればスマートフォンのパノラマ機能を思い浮かべる方が多いでしょう。ですが、当時はそのような便利なものはなく、パノラマ写真を撮るのは非常に大変だったと想像できます。

志摩鳥羽港全景パノラマ内の相島
志摩鳥羽港全景パノラマ内の相島

一枚一枚を一つ前の写真とずれないように撮る...なかなかに根気がいる作業だと思います。

私たちも便利なものを利用するのではなく、かつての写真家のように一枚また一枚とパノラマ写真を撮っていくのも面白いかもしれませんね。
(中村泰大 なかむら・やすひろ/真珠博物館)
-----
中村さん、初投稿ありがとうございました。皆さまぜひ伊勢参りのあとは真珠博物館さんの展覧会にもお越しくださいませ。
[2021/12/21 22:00] | 未分類 | page top
【松阪歴民】お蔭参り
今回のお題は、お蔭参りです。

お蔭参り図(文政13年)
お蔭参り図(文政13年)

御影参初編上(文政13年)
御影参 初編上(文政13年)

お蔭参りとは、江戸時代に起こった伊勢神宮への群集による集団での参拝のことをいいます。

五穀豊穣、商売繁盛の神でもある伊勢神宮に対する信仰が高まり、庶民の間で、「一生に一度は伊勢参り」という慣習が、全国に広まりました。最初に「お蔭参り」が起こったのは、慶安3 (1650) 年と言われていますが、その後、ほぼ60年周期で起こり、宝永2 年(1705) 、明和8 年(1771) 年、文政 13年 (1830)の時には、数百万人規模の参詣があったと言われています。また、慶応3年 (1867)にも、伊勢神宮への集団参詣が起こり、この時は、伊勢神宮だけでなく、全国の神社でも御札が降るなどお蔭参りと同様のことが起こりました。ただ、「ええじゃないか」の囃子言葉とともに熱狂して踊りながら町々を踊るということがあり、お蔭参りと区別して考えられています。

この伊勢(参宮)街道の通る伊勢国(三重県)には、お蔭参りのときの大騒動の様子が、多数記録に残されています。

ここからが、本題です。実は、当館の冬の企画展「伊勢商人 乾家 ~歴史に埋もれた商家の記録~」の中で、お蔭参りにまつわる資料(新出資料です!!)を公開していますので、一部紹介します。

「伊勢商人乾家展」


慶応3年の時の記録「御祓御神馬御下り略記」が、少々、長いのですが、あまりにもリアルで面白かったので、全文載せておきます。
「『御札が降った、神馬が降った』のは、誰かが撒いた?神馬は誰かが運んだ?一体、こんなこと誰がする?いやいや現実にあった本当のこと!?」と思ってしまうほどです。とりあえず、二つの事以外は、ノンフィクションとして読むことができます。

降太麻神馬之図(慶応3年)
降太麻神馬之図(慶応3年)

「慶應三丁卯年初夏ゟ天降有之候事 御祓御神馬御下り略記」          
「今年初夏頃より尾張・三河辺りに諸神社の御札が降り、御蔭参りの人が出始め、九月には東海道筋にも次々と御札が降り、宿場でも酒・飯を振る舞って大賑合。十一月には江戸でも諸神社の御札が降った。上方方面は諸国共に御札が降り、酒・飯の振る舞い、手踊りなど誠に賑やか。伊勢国も同様で前代未聞の事である。
 十一月八日朝、裏門前に内宮の御札が降ったので、すぐに祭った。
同九日朝、裏庭内へ内宮の御札が降ったので、すぐに祭った。二度の御降りなので、村方へ白米・小豆を赤飯のつもりで一軒づつ配った。さらに村中に酒・飯の振る舞いをした。銭・蜜柑も撒いた。返しとして村方より酒一樽・米五俵が悦びとして届いた。別家・出入りの者も手伝いついでに見に来る。同十日、御蔭悦びとして、村方一同へ本膳をもって酒喰を振る舞う。
同十一日、御蔭の事は滞り無く済んだので、家内・別家・出入りの者も悦び、同十二日には御祓も今日で五日祭ったので、今朝片付け、神棚に納めた。同夜、玄関先へ御神馬が降ったので、その事をすぐに役人へ届け出た。この神馬を調べたところ、神麻績機殿(かんおみはたどの)神社の神馬が修復中、紛失したとの事、まさにこの神馬に違いなく、送り返す事にした。
十三日朝、御神馬を十畳の間に祭る。伝聞した参詣人が大勢群集した。今日、新助・佐吉・みし・せんを御礼参りに使わした。十四日、御神馬御降りの次第を文書により、御領主へ届け出る。東半兵衛殿の津行きに市助を供に使わす。村方から大豆が到来、一同へ酒喰を出す。手踊りも有った。今日も参詣人が群集し、奥田宗太夫様が取締りに来られ、村方の者へ退去する様に命じられた。
同十五日、津から半兵衛殿が戻られ、御神馬は神麻績機殿神社に返す様に指示があった。同十六日、御神馬は金五百疋を添えて神麻績機殿神社へ送り返し、滞り無く済んだ。同十七日、小飯田へ外宮の御札が降った。悦びに白米が到来し、酒を返しに送った。同十八日、山添の服部へ大悉矢が降った。
 右、あらましを書き記した。
  慶応三年 十一月  
 ※半兵衛の津行き;この御札や神馬が降った乾家は櫛田川沿いの清水村という所にあり、江戸時代は津藩領でした。
(川口 朋史 かわぐち・ともふみ/松阪市立歴史民俗資料館)
-----
ぜひ皆さまもお伊勢さまへ。
[2021/12/19 22:00] | 未分類 | page top
【三重県博】松阪牛はマツサカウシ or マツサカギュウ ?
今年も残すところ後わずかとなりましたが、三重県総合博物館(MieMu)では来年の干支(寅)にちなんで、令和3年12月18日(土)から令和4年1月23日(土)まで、三重の実物図鑑「三重のトラたち」の展示を行います。トラにちなんだ色々な館蔵品を展示しますので、是非お越しください。

今回は牛肉に関する話題を少し紹介いたします。日本を代表する黒毛和種(クロゲワシュ)の牛肉は海外でもWagyu Beefとして広く知られるようになってきました。

赤肉の中に白い脂肪が細かく十分に入った牛肉は霜降り肉とよばれ、見た目にも美しく高級和牛肉として高い評価を得ています。昨今、地域の名前などを冠した銘柄牛と呼ばれる牛肉が流通しています[1]。三重県産の松阪牛、伊賀牛や、その他、前沢牛、米沢牛、飛騨牛、神戸ビーフ、佐賀牛、宮崎牛などの銘柄牛が全国的に知られています。これらの銘柄牛については、産地、血統、育て方(肥育方法)、肥育場所などに独自の基準を設けて、その基準を満たすものだけを銘柄牛として認定しています。松阪牛に関しては松坂牛協議会[2]の基準を満たす牛肉だけが松阪牛と呼ばれているわけです。

さて、松阪牛はなんと読むのでしょうか?

生きているウシはウシと呼び、牛肉になるとギュウと呼ぶのが一般的です。

Web検索で松阪牛について調べてみると、“マツサカウシと読むのが正しい読み方で、マスコミ等では2008年頃から「マツサカウシ」と読むことになった”という記載を多くに目にしました。確認のため松坂牛協議会[2]のWebページで調べると“「マツサカウシ」、「マツサカギュウ」いずれも誤りでなくこの2つの読み方で商標登録も行っている。マツザカウシ(ギュウ)のように濁音で読むのは誤り、また松坂牛と表記するのも誤り”と記載されていました。

ちなみに、2003年(平成15年)12月1日に「牛の個体識別のための情報の管理及び伝達に関する特別措置法」(「牛トレサ法」)が施行され、それ以降国内に存在するすべてのウシには個体識別番号が付与され(人のマイナンバー制度よりもずっと以前から始まっているわけです)、流通する牛肉にも必ず個体識別番号を表示することが義務付けられました(輸入肉は対象外です)。

生存しているウシには両耳に個体識別番号が印字された黄色の耳標が装着されています(動物園で飼育されているウシにも装着されています。京都の葵祭で牛車を曳いているウシにももちろん装着されています)。

スーパーなどで牛肉を購入した際にも国内産の牛肉であれば必ずパッケージなどに10桁の個体識別番号が記載されています。この番号を(独)家畜改良センターのWebページ「牛個体識別情報検索サービス」[3]に入力すると購入したウシの履歴が表示されます。なお、松坂牛については個体識別番号に対応した独自の識別番号が表示されており、この番号を松坂牛協議会のWebページ「松阪牛個体識別番号検索」に入力することで購入した松坂牛の履歴を入手することができます。一度検索してみてはいかがですか。牛に関する話題は尽きませんが、今回はこのあたりで筆を止めます。

良いお年をお迎えください。

(守屋和幸 もりや・かずゆき/三重県総合博物館)

参照URL
[1] 全国のブランド牛(銘柄牛)一覧
[2] 松阪牛協議会
[3] 牛の個体識別情報検索サービス
[4] 松阪牛個体識別番号検索
-----
話題がギュウギュウ詰めでした。なんだかモウお肉を食べたくなりますね。
[2021/12/12 22:00] | 未分類 | page top
【亀山歴博】25年のお付き合い加藤秀繁日記~亀博の古文書講座から~
亀山市歴史博物館では、平成六年十月の開館以来、ずっと続いている催しがあります。

勿論展示以外での話です。それは、古文書講座なのです。今から27年前に産声を上げた講座です。

平成6年度一回目の古文書を読もうレジメ原稿 隔世の感 手書でした
平成6年度一回目の古文書を読もうレジメ原稿 隔世の感 手書でした

講座の名前は、

①「古文書を読もう」(古文書解読の入門講座)
②「東海道亀山宿研究講座」(亀山宿に関する基礎史料の解読)
③「亀山藩研究講座」(家老家に伝来した加藤秀繁の公私に亘る日記)

の三つの講座でした。

担当したのは学芸員二人。

十月から三月までの月一回で全六回開講。開館直後故、やり方は手探り、毎回試行錯誤しながらの開講でした。ただ今も担当するさまざまな講座で講師を務めるときには、試行錯誤の連続で、今も変わっていませんね。

テキストにしたのは収蔵資料から、①が箸袋「御手茂登」から「定」(亀山城番につき定書)へ、②が「宿内軒別書上帳」と「伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図」、③が「文化十一申戌年 同十三丙子年 文政二己卯年 同三庚辰年 同四辛巳年 覚書 壱番 加藤秀繁」(通称加藤秀繁日記)でした。

加藤秀繁日記外観(館蔵加藤家文書)
加藤秀繁日記外観(館蔵加藤家文書)

この三つの講座の中で、講座の名前は幾度となく変わっていて、25年間(平成十年と令和二年は開講なし)一貫して今も読み続けているのが、③の加藤秀繁日記です。というのも加藤秀繁日記は、文化十一年(1814)から嘉永二年(1849)まで(二年間不記)の内、三十三年分、二十五冊ある膨大な日記だからです。

先にやり方は試行錯誤といいましたが、この長い日記を毎年度講座参加者の募集によって応募していただく皆様と読み続けるためには、どんなやり方があるのだろうかというのが、試行錯誤最大の課題でした。

そして、取った方法が参加者との「輪読」でした。

当時は、古文書講座で「輪読」て成り立つのかなあ、という不安もありましたが、それこそ参加する皆様に助けてもらいながら、気がつけば25年間加藤秀繁日記を読み続けています。

令和三年度は、コロナ禍で「輪読」形式は難しいので、少やり方は違いますが、天保十三年(1842)拾八番を読んでいるところです。ここまで、様々な方々に継続して来れたことへの感謝を抱き、令和四年度は、何とか「輪読」ができる状況になればなあと願いつつ。
-----
四半世紀読解を続けるとは凄いですね。継続は力なり、を実感致します。
[2021/12/08 22:00] | 未分類 | page top
| ホーム |