-お生まれはどちらですか?仙台生まれ。だけど父が転勤族だったので、小学校が三つ、中学校が二つ変わりました。
だから友達になるのが若干苦手で人見知りになりましたね。一人でも平気というか…。その分知らないところに馴染むの早いと思いますけど。
-ずっと転勤されてたんですか?高校はおばあちゃんところに預けられてそこから通いました。仙台一高です。両親は転勤族なので色々廻ってて、さすがに高校は転向が大変ですので。高校の時はラグビーです。最近また人気出てきましたね。
ラグビー部時代の吉田さん(前列中央)そこから一浪して東北大学文学部の美術史学科へ進学しました。
-美術史を志望してたんですか?いえいえ全然。社会学とか心理学が人気で、そっち行きたかったけど早いもの順で定員が埋まっちゃってて。それで残ってた美術史になったの。
-学芸員や教員を目指されていたわけではないのですね?そうそう。映画監督になりたかったの。演劇が好きだったからね。早稲田の演劇学科も受験したくらいだから。あ、ダメだったんだけどね。あの時は東大が入試中止だったから。
-安田講堂の時ですか。だから多分優秀層が早稲田に来たんだよ。だからダメだった(笑)なんて。それが理由じゃないだろうけど。
大学では昼間は映画見に行ったりジャズ喫茶にたむろしたりしてましたね。学生運動の時だから大学も封鎖されてたし。
結果4年で卒業出来ず留年しましたから。留学もしてないのに(笑)
-国分町〔仙台の繁華街〕に留学してたんですね(笑)そうそう(笑) 僕国分町でボーイをやっていたしね。
そして卒業して、やっぱり映画会社に憧れてたから日活受けたんですよ。あの時はロマンポルノがあってね。
そして最終面接まで行ったんです。
-え、それは凄いですね。するとね、「君はテレビ向きじゃないか」と言われたんでテレビ局を受けたらね、「あんたはテレビとは違う。映画向きだな」と言われて結局体よく両方断られたんです。
-就職活動のやり直しですね。ちなみに卒論は何をされたんですか?卒論はね、戯画。日本の戯画ね。日本画ってほら戯画的な要素あるでしょ、ああいうのをやりたくて。
消極的な理由で選んだ美術史学科だけれども楽しかったんですよ。就職は自分の持ってた学芸員の資格を活かしたかったし、会社員もちょっと・・・という感じで考えてました。
すると先輩が「名古屋の方で博物館ができるので受けてみろ」と半分命令みたいな感じで。恩師の辻(惟雄)先生にも言われちゃったし。辻先生も名古屋にご縁がおありだったので。
-辻先生の母方は確か桑名藩医のお血筋ですもんね。そう、だからこっちにご縁があるんです。なので色々とご配慮いただいたと思うんですが、まぁ受けたら受かっちゃった。
名古屋市の博物館の準備室に入るわけです。準備室で2年、その後5年間。計7年名古屋市博にいたんです。
就職一年目(名古屋市博準備室時代)。たばこは32歳で止めたとのこと。
すると今度は美術館作るから「美術館を作りに行け」と言われて、その頃は神谷(浩)くん入って来てたから日本美術は彼に御願いして、新しい所では現代美術なのでちょっと面白そうだな、と。
-二つ目の準備室ですか、なかなか大変ですね。ゼロからですからね。学芸は僕一人で課長と係長つけてやるから何とかしろって言われて。黒川紀章先生とも色々話し合いましたね。ちょうど三重県美や岐阜県美が直前に開館するころで、色々教えてもらいました。結局5年間かかってオープンしてそこから13年ぐらいいました。合計18年ですね。
そのあたりで大体2000年ですか、世紀の変わり目だしまあちょっと長いし、というタイミングで奈良県美からお誘いがあったんです。
-ヘッドハンティングですね。うん、いくつか話はあったんだけど、やっぱり奈良・京都は憧れなのよ(笑) だから行ってみたいなと思って決心したんですが、結婚していたので単身ですね。奈良には8年いました。59歳になったのでこれもまた節目と思い戻ってくることにしたんです。一人の生活は寂しいですしね(笑)
-そこから豊田市美ですか。辞めるタイミングで、それだったらこっちきてよ、という形で豊田市美の館長に就任しました。そこで6年やって、館がリニューアルの長期改修に入るタイミングで村田(眞宏)くんが愛知県美を辞めたので後をお願いして。
豊田では現代美術もずいぶんやってきましたけど、まぁここらが潮目かなというのもありましたし。若い人に引き継いでやってもらいたいという気持ちが強かったですしね。
豊田市美術館館長退任時-ようやく肩の荷がおりるわけですね。うん。2015・2016は何もしてない。まぁ大学講師とかはやってたけど。そんで2017年に名古屋ボストンが閉めちゃうんだけどそこ手伝ってくれない?と言われて。頼まれるとお調子もんだからやっちゃうんだよね(笑) まぁ学芸員さんは次の職場決めなきゃいけないし、かといって誰もいなくなったら困るしってんで手伝ったの。
-そしてようやく三重県との関わりですね。名古屋ボストンの途中からかな、名古屋ボストンが2018年10月に閉めちゃうので、その前くらいから四日市の館長が空席だから来てくれと。そして今年が2021年なので4年目ですね。
-すごく色々な地域や館を移られてますが、なかなか稀有なキャリアですよね。そうだね、ほんとご縁というか。あとは地域性の違い、日本文化の多様性というのを感じられたのも良かったです。
自分で決めてるようでいてすごいみんなに助けられてそれに乗っかってきたと言う感じだね。
前半がテレビ会社とか映画とかチャンスがなかったのに、後で付き合う人がみんな縁を紡いでくれるというか、ほんと幸せだな、って思いますね。
-そのあたりは吉田さんの人徳だと思います。いえいえ、そんなことは。そんな事言われるとほら、お調子もんだから喜んじゃう(笑)
-ご趣味はさまざまなコレクションですよね、ブログでも紹介いただいてますが。これは好きとしか言いようがないなー。集めたくなっちゃうんだよね。高いものは集めてないけれど。同じものだけど細部はどう違うんだろうとか、並べてみると違いが分かるというか。形態分類やっちゃうんだよね。美術史の基礎だからかな~。
-お若い頃は映画監督に憧れていらっしゃいましたが、展覧会の担当もいわば映画監督のようなところがありませんか?うん!そうそう。それはそう思うね。
担当者ってのは作品、すなわち俳優を選んで演技つけたりするのはキャスティングとかに似てるよねー。
だから映画やってるとこ一緒じゃないかな、と思うし自分がそういうの好きだから展覧会とかも楽しんでやってる。
うちはプラネタリウムと博物館と環境未来館とミュージアムスタジオが三つあるようなもんだから。それはそれで面白いもん。
-小津組と黒澤組みたいなもんですか
そうだね(笑) カラーが違う。だからこそコラボすると面白いし、そういうのが重要になるんじゃないかな。
-最後に恒例、パートナーの方ですが…。
本当に聞くんだね(笑) 知り合ったきっかけですか?名古屋市博物館時代の同僚の紹介です。
妻と美術館?行きますね。すると面白い質問してくるので、そうした反応を見て。一般の人の感覚を見てますね。
ただ昔は一般の人のレベルだったんですけどだんだん詳しくなってきました。でもほんといつも迷惑かけてますのでありがたいと思っています。
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吉田さんのお話をもとに構成していますが文責はすべて筆者(杉本竜/桑名市博物館)にあります。