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【松阪歴民】松阪牛と民具のひみつ
松阪と言えば・・・・ と言うことで、「世界ブランド」、「肉の芸術品」等、称賛の形容詞をつけて語られる松阪牛の歴史のほんのさわりを少しだけ。

西日本地域では、古くから、農耕や荷物の運搬に役牛が飼育されていましたが、江戸時代、松阪地域では、温和でよく働くという役牛として優れた素質を持つ但馬(現兵庫県)産の牝牛が多く飼育されていました。

特に紀州(現和歌山県)で、1、2年、役牛として育成された但馬産の若い牝牛が、最良とされてきた歴史があります。(まあ、冷暖房付き高性能トラクターですね。)このことは、松阪が紀州徳川藩領で、流通等が容易であったことが、大きく影響しています。

明治になり西洋化の中、牛肉の需要が高まると、労役後に「野上がり牛」として肥育、「太牛」(肉牛)としての出荷が始まります。

元々、但馬産の雌牛は、肉質においても優れていたこともあり、肥育技術の向上とともに、東京などの大都市への流通経路が開拓、整備される(上方には、強敵神戸牛がいた!?)と、松阪牛として高い評価を受けるようになりました。

当時、100頭を超える牛を、松阪から、東京まで3週間をかけて、徒歩で輸送したことや四日市港から横浜港へ松阪牛を積みだしたという牛馬商の記録が残されています。

戦後になり、農業の機械化により、急速に役牛が姿を消す中で、仔牛から直接、肥育が行われるようになり、一層、肉牛の生産地としての地歩を固めていきました。このようにして、明治以降、肥育農家や流通、販売などに関わる多くの人々の努力により、松阪牛は、和牛の最高峰としての地位を築き上げていきました。

では、歴史民俗資料館らしく、牛にまつわる興味深い民具を3つ紹介します。

牛靴

ひとつは、「牛靴」です。牛に履かす靴(草履)で、稲藁に竹皮などを編み込み強くしてあります。4つ足なのに2つで1足です。

それでは問題です。前足、後足のどちらに履かせたのでしょうか?





松阪牛(昭和10年)

松阪牛の写真をよく見てください。前足に履かせています。

前足には頭部の重さがかかり、歩くときにより前足に体重がかかるからです。(お尻じゃなく頭が重いのですよ)

車がない時代、牛は徒歩での移動でした。「松阪牛発祥の地」の碑のある松阪市飯南町深野から、20km余り離れた松阪市街地の家畜市場まで牛を連れていくのに、3足の牛靴を履きつぶしたそうです。

鼻籠

次は、「鼻籠」です。地域によっては、「くつのご」といい、口にかぶせて使いました。これは、どうしてでしょうか? 

なんとなく想像がつきませんか。

田畑に行く道中や作業中に立ち止まり、草などを食べられないようにしたのです。まさしく、「道草を食う」の語源ということですが、残念ながら牛ではなく、「馬が道草を食う」が正しいようです。

飼葉桶

もうひとつは「飼葉桶」で、稲藁など牛のえさを入れます。なぜ丸形ではなく楕円形なのでしょうか?

昔、農家では、牛は家族同様大切に扱われ、多くは母屋の玄関脇の部屋で、飼育されていました。

飼葉桶は、玄関に置くことになるので、円形だと玄関が狭くなり邪魔になるからのようです。たくさん食べる牛が食べやすいように楕円形にしてその大きさを確保したのです。50年以上、松阪牛を飼育している方から、教えていただきました。

いかがですか。それぞれの民具ひとつとっても、使われる理由があり、そこには先人の知恵と工夫が詰まっています。

最後に松阪肉は、筆者が口にすることはほとんどないので、そのおいしさを伝える食レポはできないので悪しからず!!

(川口朋史/松阪市立歴史民俗資料館|2階 小津安二郎松阪記念館)
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読んでいるだけでお肉を食べたくなるようなブログ、ありがとうございました!
それにしても民具一つとっても様々な工夫をされていることがわかります。楕円形で面積確保はわかるのですが、ならどうして長方形にしなかったんでしょうか…。角があると牛が怪我するから、でしょうか。そうした想像をするのも楽しいですね。
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[2021/05/30 22:00] | 未分類 | page top
【志摩マリン】水族館の歴史 その2
前回はハード面について、お話させていただきましたが、今回は展示生物についてお話させていただきます。

基本は各施設の立地場所の自然界の情景が基本となり、あるいは各施設の展示コンセプトによって、決定されます。

収集方法もさまざまで、自家採集、漁師さんからの譲受、業者からの購入、他施設との生物交換または貸出、借用、繁殖による個体の確保などがあります。

近年は、自家採集の比率が低くなり、すこしさみしい気がしています。

飼育員の原点はその生き物がどんな所に住んでいるか、どういう環境下で生活していることを知る事が大事で、飼育員にとってフィールド採集が1番の醍醐味であると今でも思っています。

生物の種類も、当時に比べ多様化したのは、物流の利便性が向上し海外の生物も容易に入手可能となっており、日本国内であれば翌日には届くのが通例となっています。また、当時から珍魚、怪魚(日本初展示)を追い求める傾向にあり、さらにはCMなどで話題になるとその生物が一躍注目を集めることは言うまでもありません。

志摩マリンランドでの例をあげると、

アホロートル(ウーパールーパー)pf-x2調898kb志摩マリンランド
ウーパールーパー(アホロートル)

DSC_9180ミズダコ稚ダコ調(651kb志摩マリンランド
ミズダコの赤ちゃん(CMで紹介)

ハナカケトラザメIMG_5484調消ト2(744kb志摩マリンランド
ハナカケトラザメ(日本初展示、ベルリン動物園水族館との生物交換)

リーフィーシードラゴン1485-5(ph190kb(志摩マリンランド)
リーフィーシードラゴン(オーストラリアの水族館から輸入)

ランプサッカーIMG_8577調(志摩マリンランド)
ランプサッカー(ダンゴウオの仲間、ドイツベルリン動物園水族館より分譲)

ウーディーシードラゴン(業者から購入)、パラオオウムガイ(鳥羽水族館から譲渡)、スポッテッドラットフィッシュ(ギンザメの仲間、アメリカの水族館より分譲)、ボアフィッシュ(ヒシダイの仲間、モナコ海洋博物館との生物交換)、カクレクマノミ(ファインディングニモ)、クリオネ(ハダカカメガイ)等があります。

直近ですと、
ドクターフィッシュ手入D0392-2974調○(1800p410kb志摩マリンランド
ドクターフィッシュ体験

は今も人気の展示の一つです。

さらに近年は種によって保護規制の観点から入手が困難になっており、大型動物に至っては、近い将来普通に見られた生き物が見られなくなる種が増えてくることも懸念されています。

そういう状況を打破するために各施設が協力して展示生物の確保のために実施している「ブリーディングローン」という言葉をよく耳にするかと思います。

今後は繁殖によって飼育展示生物を確保していく種が増えてくるでしょう。各施設同士の連携協力が必要不可欠になっています。

私も長年魚類の繁殖等に携わってきましたが、飼育員にとってやはり繁殖研究が一番興味深く、成功の充実感と達成感が得られたように思います。 さらにつづく。
(里中知之/志摩マリンランド)
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里中さんから連載物第2弾をお送りいただきました。歴史や美術の学芸員ではコレクションを増やすことはありますが「繁殖」は経験がないので非常に興味深かったです。
[2021/05/24 22:00] | 未分類 | page top
【三博協】ミュージアムの中の人の履歴書 小林秀樹さん(亀山市歴史博物館)
-生まれはどちらですか?また幼い頃になりたかったものってありましたか?

大阪の千里です。吹田市。転勤族でしたので中学高校は千葉でした。千葉の八千代市ですね。
子どもの時はバスの運転手とか、野球選手。そういうのを考えていました。

-高校はどちらに行かれたんですか?

千葉県立姉崎高校です。そのころ、自分のアイデンティティというのは何かというのを考えたんですよ。
というのも自分は言葉は関西弁でしょ。千葉だと全然アクセントが違う。笑われちゃうんです。千葉に住んでいようともふるさとがないんです。
家では関西弁、外では標準語、なんですけどところどころでやっぱり出る。
ある時ふと自分の原点、アイデンティティを意識しだしたんです。それが高校ぐらいかな。

-大学はどちらに?


京都の大谷大学です。

-千葉からですと関東の大学を選びそうな感じがするんですが…

うん、それはね。東京の大学は考えてなかったんですよ。さっき言ったようにアイデンティティを求めていたから。
家族はみんな関西、親戚もそうですよ。誰一人関東の人はいない訳です。
なので大学は関西へ戻る感覚でしたね。学部は文学部。歴史を選んだのはやっぱり好きだったんですよ。興味があったんです。
大学に行くんやったら自分は一体何が好きか。考えた時に歴史、日本史が好きだったということなんです。

-それで大谷大学に進学されるんですね。就職はどのようにされたんですか?

就職はしてないんですよ。いちおう修士まで行ったんですが、様々な事情でM2出た時が28歳になろうとする、そんな時期だったんです。学部の時はグリル喫茶、大学院行ってからは運送屋のアルバイトしてましたね。

-博物館でアルバイトはされなかったんですか。

やってないですねー。最後の1年半くらいは京都国立博物館100年史編纂室のアルバイトやりましたね。大学の先生の仲介で。京都新聞や中外日報のマイクロを読んで記事取りやりましたね。

-学芸員という仕事を志されたのはどういった理由があるんでしょう。

何で博物館を考えたかと言うと、自分の取り組んでるやってることは…その好きだったんですよ。研究ですね。
その行為がすごく好きやった。歴史学というものにすごく惹かれていたですね。大学で歴史学を学ぶとこれまでの勉強してきたことが木っ端微塵になりませんでしたか?
歴史学というのは「役に立つ」かというとはっきりしない学問ですけど、自分で志した以上は何か考えないといけませんし…。

-それで亀山市歴史博物館に奉職されるんですね。

えぇ、運よく拾っていただきました(笑)
一回だけ社会教育課というところに動きましたが、やはり思考が博物館とは違いますね。資料から物を見ているのと、何もないところからもの見ていくことは考え方が全然違います。

-これまで亀山歴博での仕事をを振り返ってみて如何ですか?

平成6年、ちょうど周辺の自治体が市町村立の博物館を建てたり、うちの後にできたりしてたんですね。
自分の中では競争意識があるんです。つまり、「亀山市は博物館あってええな」と言われたいんですよ。
とにかく羨ましがられたいんです。そのためには実績が伴わないと駄目ですよね?実力が伴わないと駄目なんです。
地域の博物館は人が少ないですよね。でもだからといって専門じゃないから分からないということが多かったらダメだと思うんです。僕はそれは言い訳にはならんでしょ、と。何でもやるべきだと思います。だから自分は歴史だけじゃなくて民俗や自然みたいなこともします。学問的にどうか、といわれるかもしれないけど、博物館というのはやはり「公共」ですから。
特に博物館のないところに博物館を作ったらそれはもう「公共」です。
今までは郷土史家とか限られた人が限られた人の中でやってたんですけど、そうではなくて市内、県内、全国といったところへ裾野を広げ俎上にあげていく、亀山にはこういう切り口があるんだというのを示して行けたらと思っています。

-自らのアイデンティティを探していくということと亀山のアイデンティティを探していくことは同一なのかなとお話を伺って思いました。さて、最後は恒例のパートナーに関する質問をさせてください。奥様との出会いはどちらでしたか。

学生の時ですね。結婚したのは就職してから、ですから31歳です。
妻は先に卒業して働いてましてね、私の下宿の隣の部屋にいる人の同級生だったんです。それで知り合いまして。

-それでは「就職待ち」だったわけですか。


そうなりますね。何歳までは試験受けさせてくれ、っていってあっちこっち試験受けにいきました。
わがまま言ってたらダメですからね、どこでも受けに行きましたよ。それでようやく亀山にお世話になる事になったんです。

-素晴らしいお話をありがとうございました。これからも亀山歴博発展のため益々のご活躍をご祈念申上げます。

ありがとうございました。

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小林さんのお話をもとに構成しています。文責はすべて筆者(杉本竜/桑名市博物館)にあります。
[2021/05/16 22:00] | 中の人の履歴書 | page top
【四日市博】マンガとミュージアム
1949年生まれの私が子どもの頃、マンガ(漫画)は子どもが読むもの、大の大人が読むなんて、と言う時代だった。

ところが今や、マンガは立派に独り立ちしたメディアになって、世界へ輸出する日本の重要な産業、誇れる文化でもある。

通勤電車の中で、本やスマホを通してマンガを読んでいる大人なんて近頃珍しくもなんともない。表記も「漫画」から世界にも通用するような「漫画」「MANGA」への変化が一般的になってきた。

そんなメディアとしてのマンガには、当然のごとく「世界史」や「日本史」ばかりでなく、「文化史」「美術史」「美術」「美術家」をテーマとするものが数多く現れて来ている。

さらに1990年代以降になると博物館や美術館、そしてそこに働く学芸員や職員をテーマとしてマンガが登場して来た。

1997~99年 岡崎二郎『国立博物館物語』 1~3  (小学館)
2012年 井上ふき『めがねのキミと博物館』(芳文社)

⑤DSCN5276

2015年 オノユウリ『美術館で働くということ』(KADOKAWA)
黒田いずま『美術館のなかのひとたち』1~3(~2017) (竹書房)
2017年 宇佐江みつこ『ミュージアムの女』(KADOKAWA)

⑤DSCN5277

2018年  大田垣晴子『ぶらぶらミュージアム』(交通新聞社)
2020年  久世番子・絵/ 栗原祐司・監修『博物館ななめ歩き』(文藝春秋)
2021年  鷹取ゆう『ただいま収蔵品整理中!』(河出書房新社)

先行する岡崎二郎の『国立博物館物語』は、科学系の博物館で、AIや地球環境、生命の継承など今日でも中心的なテーマとなる問題に取り組んでいる。

井上ふき、オノユウリ、黒田いずま、鷹取ゆうの作品は、美術館・博物館に詳しく取材して、もしくは自分の実習経験から、現場に働く人じゃないと分からないような出来事や問題を、ユーモアを混ぜて描いて見せる。

また、宇佐江みつこの作品は現役の案内・監視スタッフという立場の経験や視点から描かれたユニークな作品となっている。さらに各美術館・博物館の概要、案内書を兼ねた『ぶらぶらミュージアム』や『博物館ななめ歩き』も、分かりやすく親しめる図柄で、行ってみようと思わせる魅力を持った本である。

このように従来とは異なったメディアと視点によって取り上げられることは、『鬼滅の刃』の大ヒットで博物館の刀剣に大きな注目が集まった例を持ち出すまでもなく、美術館・博物館にとっての新たなファン層の拡大へとつながっていくのではないだろうか。
(吉田俊英/四日市市立博物館)
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いくつか読んだことありますがどれも面白いですよね~。私のおすすめは『ギャラリーフェイク』と『にゃいず』です。
[2021/05/09 22:00] | 未分類 | page top
【亀山歴博】自分が持っている昔の物
仕事柄、毎日昔の物を資料として取り扱っていますが、ふと自分が持っている昔の物にはどんなものがあるだろうか、と頭を巡らせたとき、まず頭に浮かんだのは、コマ回しのコマでした。

幼稚園で、何人かがコマを回して遊んでいました。皆が彼らを取り囲んで見ていました。

コマを回していた一人から、

「君はコマ回されへんの」

といわれたことを覚えています。

私は、彼らを「ちょっと先行くやつら」と羨望のまなざしでみていたような気がします。しかも、皆が回していたのは鉄ゴマでした。

私も鉄ゴマがほしくて、親といっしょにおもちゃ屋さんを何軒かまわって、やっと買うことが出来たことを覚えています。

s鉄ゴマP4297211

ご多分に漏れず、兄や父に教えてもらっても全然回せません。しまいに腹立って、泣いてコマに八つ当たり。

それで母に怒られよけい大泣きの大騒ぎの繰り返し。

でも最後には回せるようになりました。木の部分に、母が書いてくれたわたしの名前が、まだのこっています。

s鉄ゴマP4297197

今から五十年以上前になる、この鉄ゴマは、私にとってはまだまだ、

「ついこないだ、こうてもろてん」

という感覚ですが、亀山市歴史博物館では、昔の物として解説されるものになるんでしょうね。

追伸
昔の物を調べるときに、兎角その用途に注目してしまいますが、実は、春夏秋冬のいつ使われていたのかという注目から、それが持つ資料性を引き出すことも出来るんです。

 第36回企画展「収蔵品から四季を探そう」只今開催中、6/13(日)まで
 この展示は無料でお楽しみ頂けます。

(小林秀樹/亀山市歴史博物館)
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鉄ゴマ、懐かしいですね。芯のないベーゴマなどもありました。最近は「昔の遊び」コーナーになりますが。。。
今やファミコンやセガサターンも充分昔の遊びじゃないかと思うのですが…(; ̄∀ ̄)ゞ
[2021/05/02 22:00] | 未分類 | page top
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