-生まれはどちらですか?また幼い頃になりたかったものってありましたか?
大阪の千里です。吹田市。転勤族でしたので中学高校は千葉でした。千葉の八千代市ですね。 子どもの時はバスの運転手とか、野球選手。そういうのを考えていました。 -高校はどちらに行かれたんですか? 千葉県立姉崎高校です。そのころ、自分のアイデンティティというのは何かというのを考えたんですよ。 というのも自分は言葉は関西弁でしょ。千葉だと全然アクセントが違う。笑われちゃうんです。千葉に住んでいようともふるさとがないんです。 家では関西弁、外では標準語、なんですけどところどころでやっぱり出る。 ある時ふと自分の原点、アイデンティティを意識しだしたんです。それが高校ぐらいかな。 -大学はどちらに? 京都の大谷大学です。 -千葉からですと関東の大学を選びそうな感じがするんですが… うん、それはね。東京の大学は考えてなかったんですよ。さっき言ったようにアイデンティティを求めていたから。 家族はみんな関西、親戚もそうですよ。誰一人関東の人はいない訳です。 なので大学は関西へ戻る感覚でしたね。学部は文学部。歴史を選んだのはやっぱり好きだったんですよ。興味があったんです。 大学に行くんやったら自分は一体何が好きか。考えた時に歴史、日本史が好きだったということなんです。 -それで大谷大学に進学されるんですね。就職はどのようにされたんですか? 就職はしてないんですよ。いちおう修士まで行ったんですが、様々な事情でM2出た時が28歳になろうとする、そんな時期だったんです。学部の時はグリル喫茶、大学院行ってからは運送屋のアルバイトしてましたね。 -博物館でアルバイトはされなかったんですか。 やってないですねー。最後の1年半くらいは京都国立博物館100年史編纂室のアルバイトやりましたね。大学の先生の仲介で。京都新聞や中外日報のマイクロを読んで記事取りやりましたね。 -学芸員という仕事を志されたのはどういった理由があるんでしょう。 何で博物館を考えたかと言うと、自分の取り組んでるやってることは…その好きだったんですよ。研究ですね。 その行為がすごく好きやった。歴史学というものにすごく惹かれていたですね。大学で歴史学を学ぶとこれまでの勉強してきたことが木っ端微塵になりませんでしたか? 歴史学というのは「役に立つ」かというとはっきりしない学問ですけど、自分で志した以上は何か考えないといけませんし…。 -それで亀山市歴史博物館に奉職されるんですね。 えぇ、運よく拾っていただきました(笑) 一回だけ社会教育課というところに動きましたが、やはり思考が博物館とは違いますね。資料から物を見ているのと、何もないところからもの見ていくことは考え方が全然違います。 -これまで亀山歴博での仕事をを振り返ってみて如何ですか? 平成6年、ちょうど周辺の自治体が市町村立の博物館を建てたり、うちの後にできたりしてたんですね。 自分の中では競争意識があるんです。つまり、「亀山市は博物館あってええな」と言われたいんですよ。 とにかく羨ましがられたいんです。そのためには実績が伴わないと駄目ですよね?実力が伴わないと駄目なんです。 地域の博物館は人が少ないですよね。でもだからといって専門じゃないから分からないということが多かったらダメだと思うんです。僕はそれは言い訳にはならんでしょ、と。何でもやるべきだと思います。だから自分は歴史だけじゃなくて民俗や自然みたいなこともします。学問的にどうか、といわれるかもしれないけど、博物館というのはやはり「公共」ですから。 特に博物館のないところに博物館を作ったらそれはもう「公共」です。 今までは郷土史家とか限られた人が限られた人の中でやってたんですけど、そうではなくて市内、県内、全国といったところへ裾野を広げ俎上にあげていく、亀山にはこういう切り口があるんだというのを示して行けたらと思っています。 -自らのアイデンティティを探していくということと亀山のアイデンティティを探していくことは同一なのかなとお話を伺って思いました。さて、最後は恒例のパートナーに関する質問をさせてください。奥様との出会いはどちらでしたか。 学生の時ですね。結婚したのは就職してから、ですから31歳です。 妻は先に卒業して働いてましてね、私の下宿の隣の部屋にいる人の同級生だったんです。それで知り合いまして。 -それでは「就職待ち」だったわけですか。 そうなりますね。何歳までは試験受けさせてくれ、っていってあっちこっち試験受けにいきました。 わがまま言ってたらダメですからね、どこでも受けに行きましたよ。それでようやく亀山にお世話になる事になったんです。 -素晴らしいお話をありがとうございました。これからも亀山歴博発展のため益々のご活躍をご祈念申上げます。 ありがとうございました。 ---- 小林さんのお話をもとに構成しています。文責はすべて筆者(杉本竜/桑名市博物館)にあります。 |
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