三重県博物館協会加盟館園の「中の人」を紹介していく連載企画です。
記念すべき第1回目は鳥羽水族館の若井嘉人(わかい・よしひと)副館長にご登場願いました。
それでは若井さん、どうぞよろしくお願いいたします。
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-お生まれはどちらでしょうか。【入社当時の写真を持つ若井さん】

私は大阪の堺というところの生まれで、三人兄弟の長男です。
父は鉄工所で働く旋盤工です。手先が器用で、いわゆるエンジニア気質の持ち主ですね。
私のお祖父さんが釣り好きでね、よく釣りに連れていってもらいました。
小さい頃から生き物好きでしたが、そういう機械といいますか工学的なものも興味がありました。ですので自分の根っことしてはそういう自然科学系のものがあるんだと思います。
高校は大阪府立登美丘高校です。今は
ダンスで有名になりましたけどね(笑)
さて高校で自分の進路を考えた時に、やはり脳裏に浮かんだのは父の背中を見て、というわけではないのですがエンジニアだったんです。
機械工学をやりたい、と。そして大学もそうしたところを受験したんですがそこは残念ながらダメでして一年浪人することになりました。
その浪人時代に、書籍、エッセイというか一冊の本を手に取りまして。
ムツゴロウこと
畑正憲さんの『ムツゴロウの青春記』でした。
これを読みまして、やはりキザなんですが
自分の「一生の仕事」って何だろうと考えたんですね。深く考えたんです。そして人の生活を豊かに出来る仕事がやはりやりたい、と思って、エンジニアではなく自然を相手にする仕事を考えたんです。
-そこから工学から関心が移っていくわけですか。そしてこれからは海だろう、と。海洋資源だろう、と。そう考えました。
そして近畿大学水産学部へ入学しました。今は
「近大まぐろ」で知られていますけども。そうなんです、どこも割と出身校が旬なんですよ(笑)
とにかく山、海、池、自然を相手にする仕事がしたかったんです。そして海水増殖学という研究室に入ったんですが、白浜に研究所があって、1年間はそこで過ごさないといけないんですよ。全寮制で。
近大は実践主義ですので、そこでの生活費も自分で稼ぐんですね。プランクトンを作ったり、船の生簀に餌やりにいったり、色々な研修をしながら自分で稼ぐ訳です。ちなみに卒論はヒラメの染色体の研究をしました。そうして1年間勉強して就職の時期になるわけです。
ところが就職先が決まってないんですね。
そんな中、近大の卒業生で水族館に就職された方が鳥羽水族館で活躍していらっしゃって、丁度欠員が出たので誰が良い人いないか、と指導教官に話が来たんです。
そして私、これ余談ですけど指導教官の奥様に気に入られてですね、その奥様からの御口添えもあったのかも知れないですけど、指導教官からまぁ真面目にやってる若井君を…と紹介していただいたんです。
ただ、
「給料安いよ」と(笑)。
本当に安かったですね。ただ、自分の好きな動物をお世話出来たり、研究ができたりというある種自分の追い求めていた仕事ということと、あと先輩からもかなり強く誘っていただいたので、結局鳥羽水族館入りを決めたんです。
【入社当時(1984年頃)の鳥羽水族館(旧館)】

ですので、水族館にはたまたま、たまたま入ったわけです。本当に今思うと縁というか、タイミングだとそう思います。
-水族館を目指す方に一言お願いします。水族館は見た目は華やかですが、いわゆる「K」の付く仕事。きつい、汚い、危険、これにもう一つKがついて、給料が安い。
もちろん個々の能力も問われますが、チームワークも大事。動物好きであると同時に人とのコミュニケーション能力が問われる仕事です。
夢のある仕事ですが、
夢だけでは続かないのでそれなりの覚悟が大事です。
そうした覚悟のある方に目指してもらいたいと思いますね。
-配偶者の方との馴れ初めは。妻との馴れ初めですか?必要ですかその質問(笑)
職場結婚ですね。先に飼育部に配属されてまして。
職場では秘密にしてたかったって?それも必要ですか?(笑)
そりゃ秘密にしてましたけど、当時はスマホもなく、家に電話をかけると親が電話口に出る時代でしたから…いやもういいでしょこの話(笑)
【ジュゴンのセレナと泳ぐ(1990年頃)】

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水族館での人知れぬご苦労も様々お伺いしましたが、そうした部分だけを表に出さず「夢のある場所」としての施設を守ろうとする若井さんのお言葉に「覚悟」を感じたインタビューでした。若井副館長、ありがとうございました。(三重県博物館協会理事・杉本)
※若井さんからのお話を元に執筆していますが、文責は全て筆者にあります。