昨日は、協会関係の書類を渡す用事と、ちょうど武四郎に関心を持っている知り合いが東北からきていたので、松浦武四郎記念館へ行きました。ちょうど、学芸員の山本さんもちょうど出勤で、展示もやっぱりきて良かったという充実した内容でございました。ちなみに当ブログで既に紹介しておりますが、山本さんは、こんど武四郎のことをみえミュージアムセミナーでお話しされます。
ぱっと目を引くのが、幕末から明治期に活躍した天才画家・河鍋暁斎が松浦武四郎の最期の姿を描いた「武四郎涅槃図」。もとからご所蔵のものですが、さすがに圧巻です。そして、東京の静嘉堂に残されていたことが判明した、武四郎愛蔵のコレクション(暁斎の絵の中に描かれた品)の数々が涅槃図を取り囲みます。まさに、涅槃図が立体になって飛び出てきたかのよう。静嘉堂所蔵の武四郎コレクションが、特別に出陳されているのも必見です。ばらばらに散っていた、武四郎愛蔵の品が、時空を超えて今、松阪市小野江に集まっているということにも感動でした。 また、その中に武四郎の写真に写っている首飾りがありました。写真は白黒なのでさっぱりしたモノかと思いきや、かなりカラフルです。とはいえ、「武四郎涅槃図」にもカラフルに描かれているので、もともとカラフルなことはご研究されている皆さんはわかっていたのですね(不勉強ですみません)。 イベントなども含めて詳細はHPでご確認下さい。 武四郎の古物収集について、山本さんからは初期の文化材保存の話もからめたお話がありました。武四郎の好古、世古格太郎の文化財保存への関与、「博物館」という言葉を比較的早く使用した市川清流と、日本の博物史・博物館史を三重県の人物中心でかたるということも出来なくもなさそうです。 さてさて、書類というのは、日本博物館協会の大会に関してです。山本さんには分科会の司会をしていただきますので。分科会のことについてもリサーチしたことを書き込んでいきたいですね。それと、日博協の全国大会の調整で、県内の館園の皆さんにいろいろご足労いただいていることから、当ブログのもとであるWGについて、展示後の反省会が開けずといった状態でした。これについてもなんとかせねばというところです。ブログを見ている、WG構成員の皆さま、折を見て動き始めますので、またなにとぞ宜しくお願い申し上げます。 スポンサーサイト
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三重県博物館協会に加盟していた館で、残念ながら今はもうなくなってしまった館がいくつかあります。古い協会の会員館園総覧がありますのでそれを見ると載っています(また紹介しないと駄目ですね)。
その一つが、鳥羽にあったぶらじる丸です。私も小さいときに、CMをみて、手を付けると髪の毛が逆立つ静電気の仕掛けなどがあるようで、いきたいいきたいと親にせがんだ記憶がおぼろげながらあります(まちがいだったらごめんなさい)。 ぶらじる丸はその名の通り、船を利用したパビリオンでした。 戦後の大型移民船として活躍した、商船三井のぶらじる丸(2代目)は、1974(昭和49)年鳥羽市に曳航され、岸壁に固定されました。そして、海洋パビリオン「鳥羽ぶらじる丸」として営業を開始したのでした。鳥羽の観光の名所となったものの、平成に入り入場者の伸び悩みもあり、1996(平成8)年、所有者の商船三井が解体を決定し、中国へ曳航されたのでした。そして、その後の消息は消え、解体されたものと皆が考えていました。ところが、その後、2009(平成21)年1月27日付の朝日新聞に、「ぶらじる丸、生きていた、解体の予定が、中国で観光施設に」というタイトルで、ぶらじる丸が、中国南部の湛江(じんこう・ジェンジャン)で船内に海鮮レストランや、水族館、船の歴史を展示したスペースをつくり、現在も海洋パビリオン的使用をされているとの報道がありました。 2009年からはや5年、現在はどうなっているかは分かりませんが、三重県の観光地を彩った一艘の船の行方の情報でありました。 |
昨日は東海三県の博物館研究交流会でした。
昨年は、三重県が会場で協会の活動自体を議論する回となりましたが、今回は愛知県陶磁美術館で、地域に根ざした活動をしている事例紹介と、防災への取り組みについての二本立てで、愛知県博物館協会の研修会も兼ねる催しでした。 さて、愛知県の博物館協会はHPにしっかりとした40年史を掲載しておられます。 この40年史には、博物館協会主催による、合同展示会の先駆的な事例が掲載されています。昨年の東海三県博物館協会研究協議会では、H12年に行われたこの合同展示について発言があったので、愛知県博物館協会40年史をひもといたのでした。その文章は、田中青樹「「いこまい!!愛知のミュージアム展」顛末記」です。そこでは、H12の展示の前例として、1969年の「愛知の博物館展」と1970年「レッツゴーミュージアム展」について、その当時重要な役割を果たした広瀬鎮氏の著作の記述とともに記されていまた。 その記述は広瀬鎮『博物館は生きている』(NHKブックスジュニア、1972年)の179ページから「手を結ぶ世界の博物館」「各地の博物館をつなぐ」という項目にあります。 そこでは、愛知県東三河地方の資料館が手を結んで、東三河博物館施設協議会という組織を作り活動していること、それが情報センターとなることが示されていました。田中氏はその本の中で次のような広瀬氏の記述を引用してられます。 それぞれ植物園、動物園、天文台、水族館、歴史館、郷土館といった形で特色をもっているのですから、役割を分担し合って、それぞれの施設の欠けているところを助け合いながら一体となって活動しますと、ちょうど一つの総合博物館のような博物館活動ができるのです。 一般に総合博物館と名乗っているところであっても、これらの機能をすべて併せ持っているところは皆無です。その意味で、どの館においても傾聴すべき点がある論なのかもしれませんし、いまだ興味深い論であるといえるかもしれません。 |
現在、二見には二見シーパラダイスがありますが、戦前にも二見に水族館があったてご存じですか?
二見シーパラダイスは、 前にも書きましたが、1966(昭和41)年発足の二見浦熱帯植物水族館が前身となって、その後二見夫婦岩シーパラダイスと改称して、現在も生き物と直接ふれあうことができる水族館ということで、好評を博しています。 その水族館は、伊勢側から二見トンネルを抜けた場所にあります。ところが、二見の戦前の鳥瞰図(二見館など旅館が出した戦前の鳥瞰図)をみると、水族館は二見興玉神社の参道の入り口の橋からそのまま真南の方向。つまり、二見トンネルを抜ける前の山手にある様です。 そして絵を見ると、水族館の前には橋が架かって、水族館としては二階建ての白い建物と、平屋の建物が東側に二棟ある様にえがかれています。そして、お城のような建物の西側にはロープウエー(二見浦旅客索道)がはしって山の上までつながっています。 水族館は現在の旧道のトンネル(二見トンネル)の伊勢側入口付近に存在したようであす。 このあたりは、賓日館さんに聞いてみるといいかもしれないですね。 この水族館、実は戦後も存在していたようで、1956年2月末日現在の社団法人日本博物館協会会員名簿には二見浦水族館 三重県二見町江569 電話番号は二見浦168とあります(ちなみに、これは公刊されている組織単位の名簿ですので、個人情報では無いため掲載はだいじょうぶだろうとおもいます)。なぞは深まる一方である。『博物館研究』バックナンバーめくりをしてみるのもよいかもしれないなとおもわされました。現在その地番にはお土産屋さんがたっております。 ちなみに、二見の観光について意外なところで記事がありました。多気町の郷土資料館の広報誌『悠』(はるか)です。この広報誌、地域の歴史に関する非常に細かいコラムを載せており、毎回楽しく読ませていただいております。今年発行のものに、二見のロープウエー関係の資料が多気の郷土資料館によせられ調査しましたという話がありました。ちなみに、多気の郷土資料館では、既に終わっていますが、企画展「グラフ誌のさきがけ ―読むより見る―」が7月10日(木)~9月21日(日)の期間行われていました。『歴史写真』や『歴史画報』等グラフ誌の先駆けとなった大正時代の雑誌を中心に紹介され、あの多気の展示室に所狭しとグラフ誌が並べられていました。その様子は圧倒的でありました。 特に気になったのが、災害や事故の写真で三重県の様子が示されたもの。戦前の水害の様子の写真を、あまり見た記憶がない。また、参宮線の脱線事故の写真もありました。大正12年4月16日に下庄と一身田の間で保線作業中の現場に、列車が突っ込み、脱線し死傷者が出たという事故の写真。これも初めて見た。史料のめくりはしたことがあるものの、画像、絵画などのめくり、政治史以外のめくり作業はあまりされていないのではなかろうか。そんなことを思わされました。 ちなみに、博物館の前史ともいえる、博覧会についても過去の展示で取り上げてられるのが多気町の郷土資料館です。多気の地元から出てきた資料にこだわりつつ、県内全域に関わる問題を渋く追究されておられます。 |
水族館学の本をひっくり返してみえの水族館について以前レポートいたしました(ちなみに水族館学の本をてにいれたかったら鳥羽水族館の売店に売っているはずです)。その中で三重県水産試験場の水族室が取り上げられておりました。????と思っておりましたが、よくよく考えてみるといろいろ事業史は書かれているわけで、『三重県水産試験場水産技術センターの一〇〇年』(三重県科学技術振興センター水産技術センター、2000年)を読めばいいじゃないかと気づきました。この本ですが、海の博物館とエッセイストの川口祐二さんが協力してなった本です。なお、三重県水産試験場は現在三重県水産研究所となっております。
少し話が外れますが、水産研と海の博物館のつながりは深いものがありまして、私も数年前水産研がおこなった研究集会でも海博の平賀さんが伊勢湾ののりの歴史的な話をされておりました。この研究集会は、海博の平賀さんの話の他に、漁協関係者の事業的なお話、水産研関係者の水産の実際的な研究の話があり、たいへん総合的なもので水産学の研究者だけではなく、私のような文系人間でもあるいは、事業者でも楽しく聞けるといって、研究の重要性をおろそかにしない奥の深い研究集会でありました。以前、職場のシンポジウムで大変お世話になった水産研の方も関係されておりましたので、職場の水生生物の学芸員に教えてもらい、気になって、私的にこっそり聞きに行きました。実は、私自身のり養殖が盛んな地域で育ち、親戚も海苔製造しており、シーズンにはおばあさんが働きに出て、学校帰りにはその海苔工場へよって海苔をベリベリはいで手伝った(遊んだ)思い出がありますので、地元民としても非常に興味深かったのです。 さて、水産研究所の水族室ですが、『三重県水産試験場水産技術センターの一〇〇年』39頁には以下の通りございました。 漁業の重要性が増し、盛況一段と進むにつれ、水産試験場施設拡張が強く要望され、昭和3年(1928)冬に県議会は本場の新建築予算を承認した。昭和7年(1932)12月25日に新築場舎へ移転を完了し、業務を完了し業務を開始した。敷地は三千九十一坪六合で、その土地と総工費十一万三千百四十円のうち八万円も浜島漁業組合が寄付した。建物は研究室を中心とした本館が百九十坪〇五、倉庫が八十三坪五ほか、講堂、冷蔵庫、燻蒸室、製造工場、水族室、養魚池などほぼ整った施設規模になった。この本館は昭和五十八年まで使われた。 なお、水族室の写真も掲載されておりました。残念ながら、どの様な利用者があったかは書かれておりませんでした。 |
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