fc2ブログ
【桑名市博】三博協、中の人の履歴書 守屋和幸さん(三重県総合博物館)
―ご出身はどちらですか?また高校時代はどのように過ごされましたか?

山口県岩国市です。地元の岩国高校に進学しまして弓道部、また生徒会にも入りました。

―岩国高校というと高校野球ファンにも知られています。

3年春の時に選抜に出場しまして、当時江川の作新学院が強くてね。そういう時代です。

―進路についてはどのように考えてらっしゃったんですか?

医学部、というのも考えていたんですけど、まぁ〈生命〉というものに興味があったので、それで動物を扱う畜産学科、というのを考えて、京都大学農学部畜産学科へ進学しました。

―大学ではどのようなご研究をされたのですが?

主に肉牛をメインに家畜生理学というのをやっていました。また遺伝育種をコンピューターを使って解析したりしていました。やはり〈生命〉が興味対象ですので、こうした遺伝学等の研究そのものは性に合ってたといいますか、面白かったですね。

―就職については如何でしょうか。

いや、あまり考えなかったです。ただ、4回生の時に先輩が伊藤忠商事のリクルーターをやっていらっしゃって「手をあげたらいつでも採用してやるぞ」なんて言われてたんですけど 、たまたまその年は(伊藤忠が)安宅産業と合併して採用がなかった年だったんです。ですのでそのまま修士にあがって後はズルズルと(笑)

―後はズルズルと(笑) 大学では何かサークルに入っていらっしゃいましたか?

サークルはフォークダンスサークル、正しくは京大民族舞踊研究会ですね。そこに入ってました、四年間ずっと。家は下宿でしたね。今の学生はみんな真面目に授業聞きますが、我々の時代は聞きませんでしたね。我々の学部の時、まだ教養の時代でしたが1年に10回くらいしか行ってないんじゃないかと思いますよ。しかも麻雀の仲間探しに(笑)
といいますのも京大の教育モットーは「自学自習」ですからね。ほったらかしで自分でやれ、なんです。やらなければ自業自得になるから覚悟してやれ、って言ってたんですけど今はそういうおおらかな時代ではないですね。

―その後マスター・ドクターと進学されるんですか?


そうですね、ドクターの3回生の秋に宮崎大学の助手の口が回ってきたので、そちらにいくことになりました。10月31日までが学生、11月1日から宮崎大学農学部の助手です。
そこで9年間お世話になりました。農協さんといろんな仕事をしましたので、県内の様々なところに行きましたね。平成3年3月までいまして、京大農学部に助教授というかたちで戻りました。平成10年に京都大学の独立研究科で情報学研究科が出来たんです。そこに教授で着任しました。農学部も兼担という形で学部には教えに行ってました。

ウシ放牧
宮崎県の諸塚村のスギ植林地でのウシ林内放牧の様子

―ミュージアムとのかかわりということでは如何でしょう。

十数年前から、前の大野館長と協力して京都府教育委員会と連携して出前授業やいろいろやってましたので、そこに関わって毎年博物館と協力して教員の研修講師をやっていました。私は東京に行くとよく上野の科学博物館に行きましたね。出張の合間の時間つぶしにちょうどいいんです。ふらっといけるのはいいですね。

一本締め
情報学研究科の自称「宴会部長」、いつも〆には一本締めの音頭を。

―三重県の印象は如何ですか?

今は津で家内と一緒に暮らしているのですが、坂と風が凄いですね(笑) それ以外は快適に過ごしてます。京都ほど冬の底冷えはないですからね。Miemuもとても立派な博物館だと思いますし、大野前課長が力を入れていろんなことされていたので私もそれを引き継いで行こうかなと思っています。

―守屋館長なりの新しいミュージアム像というのがあればお聞かせ下さい。

博物館はリアルな展示が基本ですよね。これは最低限強化していく必要がある部分ではないかと考えています。バーチャルというのは、それはあくまで補助的なものであって、いかにリアルなものをリアルとして関心を持ってもらうかが重要ですね。そのためには来てもらわないと困るんですけれども(笑)
私自身、情報系を長いこと研究してきましたので、そちらかから来てると分かるんですけど、やっぱりバーチャルというのはあくまでサブ、補助じゃないかな、という感想を持っています。要するに五感で見ないと、ということですね。ディスプレイ越しに3 D と言っても、これは所詮はまやかしなんで、サイズや質感が表現できないですから。やっぱりリアルを感じること、といういうのは生きていくうえでも〈野生の勘〉じゃないけど、大切な〈勘〉性だと思いますね。

―ぜひ新しい分野からミュージアムへの知見を色々ご教示いただければと思います。最後に、パートナーの方との出会いにつきまして教えていただけますか?

家内はフォークダンスサークルで知り合いました。退職したら家内と一緒にソーシャルダンスを、と思ってたんですけどコロナの状況で全然駄目ですね。

―またご一緒に踊れる日が早く来ればよいですね、本日はどうもありがとうございました。

ありがとうございました。

*****
守屋さんのお話をもとに構成していますが文責はすべて筆者(杉本竜/桑名市博物館)にあります。
スポンサーサイト



[2022/06/19 22:00] | 中の人の履歴書 | page top
【桑名市博】三博協、中の人の履歴書~大西宏明さん(斎宮歴史博物館)~
―どうぞ宜しくお願いいたします。まずご出身からお伺いしてよろしいでしょうか。三重県のご出身でしょうか?

ええ、生まれも育ちも三重県でして、玉城町です。南の方ですね。

―小さい頃はどのよう過ごされていましたか?

子どもの頃ね、私テニスやっていたんです。小学校から軟式テニス

―えっ、なかなか珍しいですね。小学校からテニスとは。何かそういったスクールがあったんですか?

珍しいでしょう?スクールとかたいそうなもんやないんですけど、地元に熱心な方がおられて、それで指導していただいたんです。みんな小学生からテニスやってないんで、中学とかは結構活躍出来ました(笑)

①20220409_145808
テニスの大会で表彰される

―スポーツマンでらしたんですね。高校はどちらに進学されましたか?

宇治山田高校に進学しました。家から通えましたしね。高校生の時は都会へのあこがれがありまして、京都や東京の大学も視野に入れていたんですが、地元の松阪大学へ進学しました。

―学部はどちらでしたか?


政治経済学部です。そこで、加藤富子先生の講義を聴く機会がありまして。加藤先生といえば地方自治のエキスパートの方ですけれども、そのお話で大げさに言いますと体中に電流が走ったといいますか。衝撃を受けましてね。それでまぁ地方自治について興味を持ち、志した、というようなかたちです。

―まさに加藤富子先生の言葉が大西さんの人生に影響を及ぼしたということになるのですね。それで三重県庁に入庁されてからはどういったお仕事を主にされましたか?

最初は広報課に配属されましたね。そのあと、職種としては建設や土木系が長かったですね。用地買収もやりました。

②20220409_145834
県庁に入られたころ

―博物館や、文化施設での勤務は初めてでらっしゃいますか?

そうですね、初めてです。館長って最初は何やるんやろう、というような感じでしたが(笑)、徐々に慣れてきたところもありますね。

―今後、斎宮歴史博物館の目指したいことなどについてお伺い出来ますか?

斎宮というのは史跡も含めて大変重要な場所ですので、斎宮歴史博物館だけではなく、明和町様はじめ地域の諸団体とひとつになって地域を大事に、また盛り上げていく必要があると思っています。やはり地域、地元の方の理解がないと何ごとも始まりませんので。

―ありがとうございました。引き続き地域の核となるミュージアムとして、地元と共働し、斎宮の大切さをご発信いただきたいと思います。最後に恒例の質問ですが、パートナーの方とはどこでお知り合いになられましたか?

聞かれるよ、とは聞いていましたが本当に聞くんですね(笑)。高校の同級生ですが、高校の時からというわけではありません。このあたりで(笑)

―わかりました、どうもありがとうございました(笑)

-----
※大西さんには思い出の写真をお願いしていたのですが、頂戴することが出来ませんでした。あわせてお詫び申し上げます。
また、大西さんへのインタビューをもとに構成しておりますが、内容につきましては筆者(桑名市博物館・杉本竜)に責があります。
[2022/04/23 22:00] | 中の人の履歴書 | page top
【桑名市博】三博協の中の人の履歴書 片山裕之さん(朝日町歴史博物館)
―ご出身はどちらですか?

地元なんです。三重県朝日町です。

―どういうふうな子ども時代を過ごされましたか?


子どものときは野球が好きで、よくやってました。クラブとかそんなのじゃなくて、子どもたちでやる野球です。空地があったのでそこでよくやってました。野球は中日ドラゴンズのファンですが、最近はサッカーにも関心が移っていて、名古屋グランパスのファンでもあります。

―小中学校は地元ですか?

はい、中学校は朝日と川越の組合立の明和中学校というとこです。ハンドボールが強いところで、近所の人が行ってたので私も入部しまして、中学はハンドボール漬けの毎日でしたね。土日も練習や試合があって…。高校は川越高校なんですけど、最初はハンドボール部に入りましたがやめて、家の手伝いやブラブラ遊んだりしてました。

―おうちはお店をされてたんですか?


そうですね、お酒がメインで、あといろいろ取り扱ってました。お酒の配達などもしましたよ。なので忙しいときは手伝ってね。特に継げとかは言われなかったので、このままどこか会社員になるのかな、みたいな感じで松阪大学に進学しました。政治経済学部です。歴史の本は好きでよく読んでましたね。戦国時代なども好きなので本多忠勝展も拝見させていただきました。

―それはありがとうございます(笑) 大学まで結構距離があるかと思うんですが通われたんですか?

そうですね、ずっと通いでした。なので一人暮らしをしたことはありません(笑)

―将来、公務員になろうと思ったきっかけはどのようなものですか?

家の手伝いがありましたので、地元に近いところで、というところがありましたね。まあ家をすぐに継げということは言われなかったのと、小売りも厳しい時代になっていましたのでその中で「役場も近いしええかな」という気持ちになりました。もちろん、公共のため、公のために働きたいという気持ちもありました。

―役場に入庁されて主にどのような仕事をされてこられましたか?

20211124131958_00001.jpg

そうですね。色々やってきましたが財政・総務・企画広報…いろいろ、一通りやってきましたね。教育委員会に出たことが初めてなんです。なので図書館とか資料館、博物館には来たことがありませんね。

―これまで経験がないところで館長職、というトップに就かれたのはなかなか大変な重責だと思うのですが、そのあたりは如何でしょうか。

最初はやはり戸惑いましたね、自分で務まるかなあ、という感じでした。ただ、館の職員の方が慣れておられるベテランの方でしたから、そこは安心でしたね。いろいろ助けてもらいながら、仕事に慣れていってるところです。あと、役場の中から見ていた博物館と、いざ中で働いてみると印象が全然違いますね。やはり中で働いてみると図書館にしても博物館にしてもイベントが多いし、その準備にかかり切りですよね。ひとつやったらまた次と。そうした中で色々やっているということは役場だとやはり見えてこない部分があるかと思います。もっと静かな職場と思っていましたから。逆に博物館の中にいると、役場の様々な情報が入って来づらくなりますね。そういう情報共有をフォローしていくのが私の役目かな、と漠然と思っています。

―行政と博物館現場をつなぐ意識、ということでしょうか。

そうですね。そのあたりはやはり意識的に取り組んでい行きたいと思います。

―最後に、目指していきたいミュージアム像を教えていただけますでしょうか。あと恒例のパートナーの方についても教えていただければありがたいです。

まだね、自分もわからないことも多いと思うんですがまずは町民の皆さんが気軽にね、来館しやすい博物館であり図書館でありたいと思います。そしてそのためにはいろんな人に来てもらえるような情報発信ですね、そうしたところにも力を入れていければと思っています。
パートナーですか、やはりこの質問はあるんですね(笑)
友達の紹介で知り合いました。

―わかりました、町民の方に親しまれるような博物館像をぜひ作り上げていただきたいと思います。ありがとうございました。


ありがとうございました。
――――
本人へのインタビューをもとに構成していますが、文責はすべて杉本竜(桑名市博物館)にあります。
[2022/01/30 22:00] | 中の人の履歴書 | page top
【三博協】ミュージアムの中の人の履歴書 川口朋史さん(松阪市歴史民俗資料館)
―ご出身はどちらですか?

三重県の多気町です。

image0.jpeg
地元から見える、年に数回雪景色になる局ケ岳(つぼねがだけ 1029m)。大好きな光景とのこと。

―どのような中学・高校時代を過ごされました?

中学はバスケ部でフォワードをやってました。高校は松阪高校で、少し家から遠いんですよ。自転車で15分バスで50分歩いて10分。

―それは遠いですね。

遠いってのもあるけど面倒くさい(笑)。それでも一応最初は顧問の先生に誘われたんでクラブに入ったんですけど、入部早々怪我をしてしまいまして。それでまぁ家も遠いというのもあってクラブは断念しましたね。

―高校生の時、将来な夢というか、職業というのは何か考えていらっしゃいましたか?

うーんとね。まぁこれはあの言うようなことじゃないやけども、まあ新聞記者ね。密かな考えではね。これはまぁならんでよかったと思ってるけども。

―今は取材される側になってしまいましたね(笑)。それで大学はどちらに進学されるのですか?

地元も三重大学やね。教育学部です。

―ご実家から通われたんですか?

通ったよ。四年生の一年間だけ下宿したけどね。卒論あるから。

―教育学部ということは教員を目指されたんですね。

そやね。理科好きやったから理科の先生になりたかったんです。なんでそやのに博物館におるんや、ってことになるんやけど。免許はそれでも社会ももってるんです。社会と理科、二つ取りました。二つ持ってると教員としても色々有利になると思ってね(笑)

―戦略的ですね。ちなみに初任地はどちらだったんですか?

海辺の方です。南伊勢町。最後は三雲中学校。松浦武四郎のとこね。校長で退職しました。最後にいた学校は実験校で面白いとこやったんです。当時はたぶん三重県でもなかったと思いますけど、一人一台タブレットを導入してね。色々な試みをやっていました。

―そして退職されてから歴史民俗資料館に移られるんですね。学芸員資格はお持ちだったんですか?

いや持ってへん。社会科の教員免許あったから行かされたんちゃうかと思うんやけど、やり始めてみるとハマったね。ハマったとか、面白いっていう言い方はアレかもわからんけれども、僕はどっちかと言うとはまると一生懸命するのよ。熱しやすく冷めやすいというか、どんどこどんどこ変わっていくタイプなんです。その意味で仕事としてははまったかな。

―ちなみに歴民の館長はいつからつとめられてるんですか?

5年目やから2017年からやね。教員やってて、学校現場から教育委員会とかいろいろ行きましたけど、県とか市とかも色々行かせてもらったんですがミュージアムというのはなかったんです。もっと行政ぽいことしてて。文化的なことはあまりしていないので初めてでした。素人ですけど、やってみると大好きな仕事になりました。相性が良かったんかなあ。
やっぱり年取ると地元の事に興味持ったりとか地域の歴史を勉強したりとか、比較的若い時は興味ないけれども、そういうのに興味持ち始める気が分かる気がするね。理科や化学よりもこうした地域の歴史の方が、知らないことを知りやすい。理科・化学は新しいことなかなか年取ってくるとしんどなってくるし難しい。そうやけども地域の歴史地域のことやったら僕しか知らんとか、そういうのがまだまだ転がってる。

―松阪はそういう意味では歴史的な資源が豊富ですよね。

それは地域ごとに色々とあると思うけどね。松阪はやっぱり自分と縁のある土地やからより深く知りたいというのはある。

―資料館の仕事をやってみて一番興味がある点について如何ですか?

今企画展をしているんですね。年に4回企画展をやって、あーだこーだやってるんですけど、それが私のミッションと言う感じなんです。どんな企画展をしようかとか、毎回しんどいし、まぁそれは自分の中だけの話なんやけど、作り上げていく過程が面白いなと思う。小さい館だけど、まあ皆さんに見てもらって喜んでもらって、入館者が増えたり反響があったりすると一生懸命やった甲斐があって嬉しいですね。学びの喜びを共有できるというか。
学芸員さんはもちろん学芸員以外の仕事はしていると思いますが、この仕事が本当に好きでやってる方だと思うんで、好きでやれるなら楽しいやろうなぁと思います。

―資料館についてPRをお願いします。

ウチは前を素通りされることが多いね。お城(松阪城)は行くけど資料館は、って言う。そこをなんとかしたい。寄ってもらう、ついでに入ってもらう、こっち来てもらう、そういう工夫ね。入った時には面白いなぁとか次も行こうかとかそういう風に思ってもらいたい。今度は2階が小津安二郎の関連展示になるので、ぜひ観光ルートに組み込んでもらって、お客さんに来てほしいですね。
また宣長記念館も近いですから、周遊で回ってもらえるような感じになればより良いと思います。

―立地は素晴らしいですからね、ぜひ色々回ってもらいたいですね。ご趣味は何かありますか?

最近は家庭菜園。休みの8割から9割ぐらいは畑にいるわ(笑)。コロナでどこも行けないのでね。最近だとスイカを収穫しました。11キロ越えのスイカが取れましたよ。狙ってたんです。後は釣り、ワイン、そうそうキノコの栽培もやりました。酒器も好きで集めています。音楽はここ半年竹内まりやをずっと聞いてますね。ハマってます。また変わると思いますけどね。僕は仕事以外に何か打ち込むものが欲しかったんです。皆さんあるでしょうけど。

image1.jpeg
趣味の一つ、酒器の収集。たくさんありますね!

image2.jpeg
ご自慢のスイカ。立派です!

―では最後に、ご家庭のパートナーについて一言お願いします。

妻ですか?地元の人です。もうそこまで。あとはノーコメントで(笑)

*****
川口さんのお話をもとに構成していますが文責はすべて筆者(杉本竜 すぎもと りゅう/桑名市博物館)にあります。
[2021/09/12 22:00] | 中の人の履歴書 | page top
【三博協】ミュージアムの中の人の履歴書 吉田俊英さん(四日市市立博物館)
-お生まれはどちらですか?

仙台生まれ。だけど父が転勤族だったので、小学校が三つ、中学校が二つ変わりました。
だから友達になるのが若干苦手で人見知りになりましたね。一人でも平気というか…。その分知らないところに馴染むの早いと思いますけど。

-ずっと転勤されてたんですか?

高校はおばあちゃんところに預けられてそこから通いました。仙台一高です。両親は転勤族なので色々廻ってて、さすがに高校は転向が大変ですので。高校の時はラグビーです。最近また人気出てきましたね。

ラグビー部(高校生)
ラグビー部時代の吉田さん(前列中央)

そこから一浪して東北大学文学部の美術史学科へ進学しました。

-美術史を志望してたんですか?

いえいえ全然。社会学とか心理学が人気で、そっち行きたかったけど早いもの順で定員が埋まっちゃってて。それで残ってた美術史になったの。

-学芸員や教員を目指されていたわけではないのですね?


そうそう。映画監督になりたかったの。演劇が好きだったからね。早稲田の演劇学科も受験したくらいだから。あ、ダメだったんだけどね。あの時は東大が入試中止だったから。

-安田講堂の時ですか。


だから多分優秀層が早稲田に来たんだよ。だからダメだった(笑)なんて。それが理由じゃないだろうけど。
大学では昼間は映画見に行ったりジャズ喫茶にたむろしたりしてましたね。学生運動の時だから大学も封鎖されてたし。
結果4年で卒業出来ず留年しましたから。留学もしてないのに(笑)

-国分町〔仙台の繁華街〕に留学してたんですね(笑)

そうそう(笑) 僕国分町でボーイをやっていたしね。
そして卒業して、やっぱり映画会社に憧れてたから日活受けたんですよ。あの時はロマンポルノがあってね。
そして最終面接まで行ったんです。

-え、それは凄いですね。

するとね、「君はテレビ向きじゃないか」と言われたんでテレビ局を受けたらね、「あんたはテレビとは違う。映画向きだな」と言われて結局体よく両方断られたんです。

-就職活動のやり直しですね。ちなみに卒論は何をされたんですか?

卒論はね、戯画。日本の戯画ね。日本画ってほら戯画的な要素あるでしょ、ああいうのをやりたくて。
消極的な理由で選んだ美術史学科だけれども楽しかったんですよ。就職は自分の持ってた学芸員の資格を活かしたかったし、会社員もちょっと・・・という感じで考えてました。
すると先輩が「名古屋の方で博物館ができるので受けてみろ」と半分命令みたいな感じで。恩師の辻(惟雄)先生にも言われちゃったし。辻先生も名古屋にご縁がおありだったので。

-辻先生の母方は確か桑名藩医のお血筋ですもんね。

そう、だからこっちにご縁があるんです。なので色々とご配慮いただいたと思うんですが、まぁ受けたら受かっちゃった。
名古屋市の博物館の準備室に入るわけです。準備室で2年、その後5年間。計7年名古屋市博にいたんです。

就職して一年目(名市博準備室)
就職一年目(名古屋市博準備室時代)。たばこは32歳で止めたとのこと。

すると今度は美術館作るから「美術館を作りに行け」と言われて、その頃は神谷(浩)くん入って来てたから日本美術は彼に御願いして、新しい所では現代美術なのでちょっと面白そうだな、と。

-二つ目の準備室ですか、なかなか大変ですね。

ゼロからですからね。学芸は僕一人で課長と係長つけてやるから何とかしろって言われて。黒川紀章先生とも色々話し合いましたね。ちょうど三重県美や岐阜県美が直前に開館するころで、色々教えてもらいました。結局5年間かかってオープンしてそこから13年ぐらいいました。合計18年ですね。
そのあたりで大体2000年ですか、世紀の変わり目だしまあちょっと長いし、というタイミングで奈良県美からお誘いがあったんです。

-ヘッドハンティングですね。

うん、いくつか話はあったんだけど、やっぱり奈良・京都は憧れなのよ(笑) だから行ってみたいなと思って決心したんですが、結婚していたので単身ですね。奈良には8年いました。59歳になったのでこれもまた節目と思い戻ってくることにしたんです。一人の生活は寂しいですしね(笑)

-そこから豊田市美ですか。

辞めるタイミングで、それだったらこっちきてよ、という形で豊田市美の館長に就任しました。そこで6年やって、館がリニューアルの長期改修に入るタイミングで村田(眞宏)くんが愛知県美を辞めたので後をお願いして。
豊田では現代美術もずいぶんやってきましたけど、まぁここらが潮目かなというのもありましたし。若い人に引き継いでやってもらいたいという気持ちが強かったですしね。

豊田市美退任
豊田市美術館館長退任時

-ようやく肩の荷がおりるわけですね。

うん。2015・2016は何もしてない。まぁ大学講師とかはやってたけど。そんで2017年に名古屋ボストンが閉めちゃうんだけどそこ手伝ってくれない?と言われて。頼まれるとお調子もんだからやっちゃうんだよね(笑) まぁ学芸員さんは次の職場決めなきゃいけないし、かといって誰もいなくなったら困るしってんで手伝ったの。

-そしてようやく三重県との関わりですね。

名古屋ボストンの途中からかな、名古屋ボストンが2018年10月に閉めちゃうので、その前くらいから四日市の館長が空席だから来てくれと。そして今年が2021年なので4年目ですね。

-すごく色々な地域や館を移られてますが、なかなか稀有なキャリアですよね。

そうだね、ほんとご縁というか。あとは地域性の違い、日本文化の多様性というのを感じられたのも良かったです。
自分で決めてるようでいてすごいみんなに助けられてそれに乗っかってきたと言う感じだね。
前半がテレビ会社とか映画とかチャンスがなかったのに、後で付き合う人がみんな縁を紡いでくれるというか、ほんと幸せだな、って思いますね。

-そのあたりは吉田さんの人徳だと思います。

いえいえ、そんなことは。そんな事言われるとほら、お調子もんだから喜んじゃう(笑)

-ご趣味はさまざまなコレクションですよね、ブログでも紹介いただいてますが。

これは好きとしか言いようがないなー。集めたくなっちゃうんだよね。高いものは集めてないけれど。同じものだけど細部はどう違うんだろうとか、並べてみると違いが分かるというか。形態分類やっちゃうんだよね。美術史の基礎だからかな~。

-お若い頃は映画監督に憧れていらっしゃいましたが、展覧会の担当もいわば映画監督のようなところがありませんか?

うん!そうそう。それはそう思うね。
担当者ってのは作品、すなわち俳優を選んで演技つけたりするのはキャスティングとかに似てるよねー。
だから映画やってるとこ一緒じゃないかな、と思うし自分がそういうの好きだから展覧会とかも楽しんでやってる。
うちはプラネタリウムと博物館と環境未来館とミュージアムスタジオが三つあるようなもんだから。それはそれで面白いもん。

-小津組と黒澤組みたいなもんですか

そうだね(笑) カラーが違う。だからこそコラボすると面白いし、そういうのが重要になるんじゃないかな。

-最後に恒例、パートナーの方ですが…。

本当に聞くんだね(笑) 知り合ったきっかけですか?名古屋市博物館時代の同僚の紹介です。
妻と美術館?行きますね。すると面白い質問してくるので、そうした反応を見て。一般の人の感覚を見てますね。
ただ昔は一般の人のレベルだったんですけどだんだん詳しくなってきました。でもほんといつも迷惑かけてますのでありがたいと思っています。

*****
吉田さんのお話をもとに構成していますが文責はすべて筆者(杉本竜/桑名市博物館)にあります。
[2021/07/04 22:00] | 中の人の履歴書 | page top
| ホーム | 次のページ>>